『桜が咲き誇る季節に、日本橋をぶらっと散歩』
[日本橋]
慶長8(1603)年に初代の木造橋が架けられ、翌年五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点となりました。
日本橋から東隣の江戸橋にかけては魚河岸が賑わい、白木屋や越後屋などが建ち並ぶ、江戸随一の繁華街でした。
明治に入ると石造りの橋に架け替えられ、現在の橋は明治44(1911)年竣工、橋長49m、橋幅28mの石造2連アーチ橋です。
橋の中央には道路の起点を示す道路元標が埋め込まれ、北西の橋詰にレプリカが展示されています。
「日本橋」という橋の字は、最後の将軍 徳川慶喜公が書いたものだそうです。
1911年、今の石橋を作る時に、時の東京市長の尾崎行雄が、「江戸から東京へ戦火を交えず無血開城できたのは、ひとえに屈辱に耐え、負けを認めて恭順姿勢を貫いた慶喜公のおかげである。いわば東京の一番の恩人にこそ揮毫願うべきである。」との強い意志と敬愛の念から、ここに慶喜公の字が残りました。
[吉備津神社]
岡山県の吉備地方には大和朝廷が派遣した「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が人々を苦しめた鬼神 温羅(うら)」を退治した伝説が残り、桃太郎伝説のルーツになったとされています。
吉備津神社には命が祀られ、境内には温羅との戦いの際、矢を置いたと伝わる「矢置岩」、温羅の首が埋められたとされる「御竃殿(おかまでん)」があり、現在も釜の音で吉凶を占う鳴釜神事(なるかましんじ)が行われている伝説の場所です。
国宝に指定されている本殿・拝殿は1425年に落成した建物で、特に本殿は「比翼入母屋造(ひよくいりもやつくり)」または「吉備津造」と呼ばれる独特の屋根形式となっています。
その他398mの長さを誇る「廻廊」や貴重な文化財も残っています。
[豊洲の歴史]
豊洲の埋立ては大正後期から昭和前期にかけて、「関東大震災」の瓦礫の処理も兼ねて行われました。
当初は「五号地」と呼ばれていましたが、昭和12(1937)年に、将来の発展を願い、豊かな土地になるように「豊洲」と命名されました。
昭和14(1939)年に「東京石川島造船所」の新工場が建設され、戦時中は軍の施設として利用され、戦後になると豊洲沖に新たな埠頭が造られ、エネルギー基地として戦後復興期・高度経済成長期の東京の経済を支えました。
現在はその役目を終え、再開発により、多くのタワーマンションが建ち、かつて東京ガスの施設があった場所には築地市場の代替施設として、何度かの延期を経て豊洲市場が2018年10月に開場しました。
[東京都港湾局専用線]
大戦後に豊洲埠頭の工事が再開すると、昭和28(1953)年には越中島駅から豊洲石炭埠頭の区間を走る貨物鉄道「深川線」が開通、
1955年には深川線から分岐した「豊洲物揚場線(とよすものあげばせん)」も開通。
そして、1957年には深川線から分岐して晴海埠頭を結ぶ「晴海線」が開通しました。
石炭やコークス、鋼材、鉄鉱石などを運搬する貨物需要の拡大に対応し、ピーク時の昭和42(1967)年に運行した貨物列車は深川線・晴海線の合計で1日22往復もあったそうです。
1.「晴海橋梁(旧晴海鉄道橋)」
モータリゼーションによって鉄道輸送からトラック輸送へと変化し、エネルギー革命の進展でガス輸送は減少。
専用線の需要はみるみる減っていき、昭和52(1977)年の東京ガス専用線の廃止から次々と東京都の専用線は姿を消していきます。
昭和61(1986)年に深川線の大部分が廃止し、最後には晴海線が平成元(1989)年2月10日に廃線となりました。
晴海橋梁は晴海線の通っていた橋梁で、豊洲と晴海を結ぶ春海橋に並行して走っていた鉄道の橋部分です。
東京湾に佇む真っ赤にさび付いた美しいフォルムのこの橋は、現在残っている東京都港湾局専用線の遺構としては最大規模のものだそうです。
1.飛鳥山公園「渋沢史料館」 「青天を衝け大河ドラマ館」
「渋沢栄一」今、NHKの大河で主人公、そして新1万円札の顔になるなど、ちょっと話題の人物。
渋沢は産業らしい産業がまだ育っていなかった明治期に、第一国立銀行(現・みずほ銀行)、日本初の製紙会社・抄紙会社(現・王子製紙)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、日本鉄道会社(現・JRグループ)、日本郵船会社(現・日本郵船)、東京瓦斯会社(現・東京ガス)など500を超える企業の設立に関わっており、「日本資本主義の父」と呼ばれています。
また、会社以外にも東京高等商業学校(現・一橋大学)や東京養育院(現・東京都健康長寿医療センター)など600もの教育機関、病院、団体などの設立・運営に携わったとされています。
現代では信じられないような話ですが、渋沢の生涯と事績を紹介している渋沢史料館をを見学したいと思いましたが、緊急事態宣言中は閉館とのことで、見学できず。
こちらには以前一度来たことはありますが、随分前で内容もよく覚えていないので、改めて今回再訪したかったのですが、残念です・・・
こちらは、かつて渋沢が住んでいた旧渋沢邸跡地に建っており、今でも残る大正期の二棟の建築「晩香蘆」「青淵文庫」と共に再度来たいと思います。
中野区はぶらっと散歩でまだ訪れていない区の一つ。
今回は西武新宿線 新井薬師寺前駅から新井薬師周辺を通り、JR中野駅までを巡りました。
1.新井薬師
安土桃山時代、天正年間(1573~92)、もと北条家の侍だった僧の行春が開いたと伝わります。
5代目住職玄鏡の頃、夢の中に如来様が現れ、「修行に務め、信心も厚いので15歳以下の子供ならどんな病気も治す薬の作り方を教えよう」と告げたという。
玄鏡は教えに従って薬を作り、子供に与えると何と病気は全快、この薬は「夢想丸」と名付けられ、評判となり、15歳以上でも、15歳のつもりで飲めば効能があるとされ、新井薬師は「子育て薬師」と言われるようになりました。
(徳川秀忠との関わり)
2代将軍秀忠の娘和子(東福門院)が眼病を患った時、新井薬師で祈願をしてもらったところ、治癒したので、将軍家から御供料として田畑を賜ったという。
それから「治眼薬師」とも呼ばれるようになりました。
江戸時代末期には門前町が形成され、料理屋・芸妓屋などが加わり発展、旧野方町の代表的な商店街となり、関東大震災後の大正14(1925)年8月には、料理屋、置屋、待合の新井三業組合が組織され、上高田の待合も加えて、花街としてに賑わいました。
(聖徳太子像)
この聖徳太子像は16歳の頃の姿を表しており、東京都左官職組合連合会中野支部が技能向上を願って設置したそうです。
両国で江戸の香りといえば、勝海舟生誕地、赤穂浪士討ち入りの吉良邸、葛飾北斎などが頭に浮かびますが、それ以外にもいろいろとありそうです。
まずはその両国という名前の起源となった橋を訪れます。
1.両国橋・広小路跡
明暦3(1657)年に発生した「明暦の大火」の被害が甚大だったため、幕府は防災上の観点から橋を架けました。
これは武蔵と下総の二つの国を結んだので、両国橋と呼ばれ、その位置は現在の両国橋の下流約50mの辺りでした。
その当時は高い建物もなく、橋の上からは、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。
十七世紀末まで、両国橋の西側一帯には「谷之蔵」という幕府の米蔵が置かれていましたが、元禄10(1699)年には撤去され、跡地は武家地や町人地として再開発され、橋の手前部分の火除地は広小路となりました(西広小路)。
それに対し、橋の東側にも回向院との間に広小路が整備されました(東広小路)。
また、西側(日本橋側)は「両国広小路」と呼ばれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物の屋台が軒を連ね、この辺りは江戸を代表する盛り場となりました。
長浜は戦国時代、羽柴秀吉が長浜城の城下町として、整備して以来、湖北地方の中心地として栄えました。
戦国時代といえば、「鉄砲」ということで、先日、NHKでも放送された鉄砲鍛冶の町 国友村の由来を知りたくて訪れました。
期待に胸膨らませて、いざ出陣!
1.浜離宮恩賜庭園
寛永年間(1624~1644)まで、この地は徳川家一門の鷹狩場で一面、葭原が広がっていました。
三代将軍家光の三男で甲府を領した徳川綱重が承応3(1654)年、後に甲府浜屋敷と呼ばれる別邸建設に着手します。
その後、綱重の長男綱豊(家宣と改名)の六代将軍就任後、徳川将軍家の別邸となり「御浜御殿」と呼ばれました。
維新後は浜離宮となり、明治2(1869)年に迎賓施設の延遼館を建設します。
その後、関東大震災・第二次世界大戦の空襲によって建築物はすべて焼失し、多数の樹木も損傷しました。
終戦直後、昭和20(1945)年11月に東京都に下賜され翌年開園しました。
かつて江戸には海水や河水を引き入れた庭園として、明治以降も清澄庭園、旧安田庭園、芝離宮などは外部と水を循環していました。
ところが埋め立ての進行や水位調整の面倒さなどから現在、海水を引き入れているのはこちら浜離宮のみです。
潮入の池の周囲に配された石にはフジツボが付着し、カニやフナムシを見ることが出来ます。
1.紀尾井町の名前の由来
江戸時代、このあたりには紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(現 東京ガーデンテラス紀尾井町周辺)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(現 上智大学一帯)、近江彦根藩井伊家中屋敷(現 ホテルニューオータニ一帯)がありました。
紀尾井町の名前は、(紀)伊徳川・(尾)張徳川、彦根(井)伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。
[紀州徳川家]
徳川家康の十男、徳川頼宣に始まる家で、8代将軍 徳川吉宗や14代将軍 徳川家茂を輩出した徳川御三家の一つ、唯一将軍を輩出した徳川御三家です。
[尾張徳川家]
徳川御三家の一つで、家康の九男、徳川義直に始まる家です。
かつては徳川御三家の中でも一番の石高を誇り、御三家の筆頭でしたが、将軍継嗣問題で紀州の吉宗に敗れたこともあって、その後は勢いを見せなくなります。
[彦根藩井伊家]
江戸幕府の譜代大名の筆頭として、徳川四天王の一つと言われていました。
井伊家で有名なのは、幕末で大老を務めた井伊直弼。
直弼が行った安政の大獄によって、橋本佐内、吉田松陰、水戸藩士など多くの人が粛清されましたが、それがもとで、桜田門外で暗殺されました(桜田門外の変)。
1.芝といえばやはり「東京タワー」
このあたり、どこにいても見ることができます。
東京タワーは1958年12月23日竣工。
私と同い年なんですね、だからかもしれませんが、スカイツリーよりも東京タワーに哀愁を感じます(笑)。
昭和の時代や東京という地理的背景を説明するためのシンボルとして、さまざまな小説やALWAYS 三丁目の夕日などの映像作品の中に登場しています。
今回は赤坂~虎ノ門周辺に残る江戸情緒を巡る散歩。
港区と言えば、お洒落な雰囲気を想像しますが、しっかりと江戸時代の遺構が残っていました。
1.山脇学園「武家屋敷門」
大都会赤坂のど真ん中に武家屋敷門??
これは江戸城大名小路(現丸の内東京郵便局付近)にあった老中屋敷の表門。
文久2(1862)年の火災後、当時、老中だった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)により再建されたもので、当時は五十八間(約120m)にも及ぶ長大な長屋門でしたが、左右両側が切り縮められ、門と左右番所のみが移築されています。
数少ない江戸城下の大名屋敷遺構の中でも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式を持つ珍しい遺構です。
山脇学園のホームページを見ると、千葉県九十九里町の山脇学園 松籟荘内にあった「重要文化財 武家屋敷門」を本校建て替え工事に合わせて、平成26年12月より赤坂の本校敷地内に移築工事が始まり、9月末に竣工式が行われたとありました。
始業式などの節目の行事の際は、生徒たちはこの武家屋敷門から登校し、新たな決意を胸に襟を正してこの門をくぐるそうです。
新型コロナウィルスの影響で、3ヶ月ほど休止していたぶらっと散歩を再開することにしました。
今回は上野から日比谷線で一駅の入谷駅からスタートし、山手線で乗降客が一番少ない鶯谷まで歩きました。
1.旧陸奥宗光邸
陸奥宗光邸と言えば、その一つが私の大好きな清澄庭園近くの隅田川沿いにもあって、そこには明治5(1872)年から同10(1877)年まで住んでいました。(現在、ここは看板が立っているだけ)
そして、陸奥は明治5年、新橋で芸者をやっていて、その美貌が有名だった亮子と結婚しました。
その後、陸奥は、明治11(1878)年に西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁固5年の刑を受け投獄されます。
明治16(1883)年1月に出獄したあと、同年9月に取得したのがこの邸宅です。
まだ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
明治17(1884)年4月から明治19(1886)年2月まで、陸奥はロンドンに留学します。
その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称された亮子と子供たちがこの家で暮しました。
そして陸奥は留学から帰国して、明治20(1887)年4月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては、都内で最も古いものの一つです。
陸奥家との関りを示すものとして、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
明治40(1907)年頃、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)としてここを買い取ります。
現在も、この家にはご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。
というわけで、この邸宅の中を見ることは残念ながら出来ません。。
新型コロナウィルスの影響で、現在、ぶらっと散歩は休止中ですが、過去に歩いた場所をまとめてみることにしました。
まずは、「本郷」。
ちょっと前までは、東京大学の学生たちが住んでいた下宿屋が数多くあり、東京のど真ん中ですが、何となくゆったり時間が流れているように感じる街です。
東大周辺に残る江戸時代の大名屋敷跡や明治の文豪たちが住んだ街の痕跡を巡りました。
1.東京大学赤門「加賀藩前田家 御守殿門」
加賀藩上屋敷は慶長10(1605)年に和田倉門外の辰之口に与えられていましたが、大坂の陣後、元和2(1616)年頃、本郷に屋敷地を拝領、これを下屋敷とし、辰口は上屋敷としました。
その後、明暦の大火で辰口邸が焼失、代わりに筋違御門外(現秋葉原付近)に上屋敷を、駒込にも屋敷地を拝領しました。
しかし、筋違邸も天和2(1682)年の大火で焼失、翌年、本郷の屋敷を上屋敷、駒込を中屋敷、延宝7(1679)年に拝領していた平尾(板橋宿隣接)の屋敷を下屋敷としました。
本郷屋敷の赤門はもともと15mほど奥の位置にありましたが、大学構内整備のため、明治36(1903)年に現在地に移設されました。
この赤門が東大の正門かと思いきや、正門は別にあります。
赤門のように江戸時代の面影を持ったものではありませんが、立派な作りです。
赤門前で写真を撮る方は多いですが、こちらは少ないようです(笑)。
今週末に迫っていた題記のイベントはコロナウィルス拡大に伴い、中止(延期)としました。
昨夜のニュースを見ても、その拡大ペースが、止まりそうになく、数々のイベントが中止に追い込まれています。
現状、その治療法が確立されていない状況では、感染を少しでも防ぐためにはやむを得ないかと思います。
実は昨日の朝までは実施する方向で調整しており、当日、配布するマスクを購入しようと10軒以上まわりましたが、全く入手できませんでした。
まるで、昭和のオイルショック時、トイレットペーパーが世の中から消えたときのようで、肌身でその異常を感じました。
そこで、刻々と変わる情報を耳にしながら、冷静に、どうすべきか考えました。
ぶらっと散歩を考えた時のコンセプトは下記3つの「わ」でした。
①「話」散策しながら新しい街を発見、思わず会話もはずむ
②「和」人に教えたくなるような食べ歩きやお店の食事で、和んでくる雰囲気
③「輪」そして新たな仲間の輪が拡がる
参加者の皆さんが大きな口を開けて笑いながら、街歩きや食べ歩きを楽しみ、ランチ懇親会では、お酒を飲みながら仲間作りをする。
そんな会を目指してきました。
しかし、当日、マスクをしながらの街歩きでは、上記の「わ」を楽しむことができないと判断し、苦渋の決断となりました。
今回は、リリース早々に定員一杯になるほど参加希望をいただき、本当にありがとうございました。
にもかかわらず、直前になって中止とし、参加を予定下さった方には大変なご迷惑をおかけすることになってしまい、誠に申し訳ありませんでした。
次回は3月20日の実施を目標に、企画(江戸城跡)をまとめていましたが、現状ではまだ難しい状況です。
いずれまた世の中が落ち着いたころ、改めて今回のイベントも実施するつもりなのでよろしくお願いします。
1.代々木公園「東京五輪選手村記念碑」
代々木公園は江戸時代、加藤清正の子孫の屋敷地を、当時の彦根城主井伊直孝が拝領しましたが、明治の終わり頃には陸軍の練兵場となりました。
そして第二次世界大戦後は連合国に接収され、アメリカ軍将校家族宿舎「ワシントンハイツ」が建設されていましたが、その後、日本に返還され、その跡地に第18回オリンピック大会(昭和39)の選手村が設けられました。
敷地面積は約66万平方メートル、5,900人を収容できる施設で、
当時、ここ以外では八王子、相模湖、大磯、軽井沢などの分村が作られ、競技によってはそちらの選手村が利用されたそうです。
オリンピック終了後、造成工事に着手し、昭和46年、代々木公園としてオープンしました。
武家屋敷から練兵場、そしてアメリカ軍家族宿舎、オリンピック選手村、そして現在の代々木公園に至る江戸時代から昭和の変化は、まさに激動の連続でした。