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【第9回】浅草・吉原跡ディープ散歩(7/2)のご報告

出典 国立国会図書館「東都名所 真土山之図」
出典 国立国会図書館「東都名所 真土山之図」

1.『待乳山聖天』(1)

 

7/2(日)、浅草・吉原跡ディープ散歩スタート

 

「ぶらっと東京散歩」では珍しく天気良好(暑いくらい)

 

まずは東武浅草駅前を出発

徒歩10分ほどで「待乳山聖天」に到着

 

由緒は595年、この土地が突然小高く盛り上り、金龍が舞い降りて、山を護ったと伝えられている。

 

浮世絵にも描かれているように、江戸時代には隅田川を一望できる景勝地として親しまれたと伝えられる

 

浅草名所七福神の一つで毘沙門天を祀っている

 

 

 

 

 


『待乳山聖天』(2)

 

境内には「二股大根」と「巾着」をモチーフにした装飾が各所に見られる

 

大根は夫婦和合、縁結び、子孫繁栄

 

巾着は財宝で商売繁盛にご利益があるようだ

 

またこちらには「池波正太郎生誕の地」の碑や静寂な日本庭園もある

 


『待乳山聖天』(3)

 

本堂はちょっと小高い丘の上にあるので、ご高齢や足腰の悪い方にはちょっとつらいかもしれません。

 

そこで下の駐車場から本堂脇まで「さくらレール」というかわいいモノレールが備えられている

 

誰でも乗れるので、一度お試しあれ(笑)

 

 


2.『今戸神社』(1)

 

待乳山聖天から徒歩3分の場所にある「今戸神社」

 

1063年、源頼義・義家父子が奥州安倍一族討伐に赴く際、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ丘と浅草今津村(現今戸)に勧請したのが由来

 

浅草七福神の福禄寿を祀る

 

 


『今戸神社』(2)

 

招き猫発祥の地とも言われている

 

その由来は「老婆が貧しさのため、飼っていた猫を手放した。すると夢枕にその猫が現れ、自分の姿を人形にしたら福運を授かると言う。そこで、老婆は地元の今戸焼で人形を作り、浅草神社で売ったところ、大評判になり、お金持ちになった」

 

招き猫発祥の地は、他に「豪徳寺(世田谷)」「自性院(新宿落合)」

にもある

*小判をしっかり握っているのは「自性院」の猫である(笑)

 

またこちらは「縁結び」のパワースポットとして有名で、参拝者には若い女性も多い

 

 

 



『今戸神社』(3)

 

新選組沖田総司の終焉の地とも言われている

 

新選組隊士の永倉新八の「同志連名記」によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは今戸神社に収容された

 

総司終焉の地については千駄ヶ谷という説もある

 

 

 


出典 国立国会図書館「名所江戸百景 よし原日本堤」
出典 国立国会図書館「名所江戸百景 よし原日本堤」

3.山谷掘公園

 

今戸神社から2分歩くと山谷掘公園がある

 

江戸初期に掘られたらしく、北区音無川を源として飛鳥山北側、王子権現の下を経て、隅田川に通じていた

 

当時は堀に沿って船宿や料理屋が建ち並び、舟での吉原行きは、陸路よりも優雅で「粋」とされた

 

途中に「紙洗橋」がある

 

この付近に浅草紙の生産所があり、原料の紙屑を舟に入れて、山谷掘りの流れにさらしておく2時間程度の間、職人は暇つぶしに吉原遊郭を見てまわった

 

見るだけで登楼しないことから、そのさらしておく工程の「冷やかす」という言葉が買う気のない客を表す言葉として、使われるようになった 

 

 


 4.『見返り柳』

 

山谷掘公園を江戸時代の人と同じように、15分ほど歩くと、ガソリンスタンドの前に柳が・・

 

これがその昔、遊郭入口付近に生えていた「見返り柳」

 

遊郭で遊んだ男が帰り道に、この柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことから、この名がつけられたという

 

振り返るような気持ちになったのは、単に遊んで楽しかったというだけでない、何か心の通じ合うものがあったせいだろうか・・・

 

風情が感じられる話である 

 

江戸時代は参勤交代などで、単身赴任の男性が多く、男女比率は7:3くらいだったらしい

 

従って、吉原は幕府の政策として、やっていた部分もある

 

 

出典 国立国会図書館「東都名所 新吉原」
出典 国立国会図書館「東都名所 新吉原」

 5.『衣紋坂』

 

見返り柳から、くの字に曲がった道(衣紋坂)を歩く

 

このあたりは、かつての吉原への入口へ通じる道

 

吉原に行く客がその前に、このあたりで身なりを整え、衣装を直したことからこう名付けられたという

 

目に浮かぶようだ(笑)

 

 


6.『吉原大門』

 

衣紋坂を歩くと、「よし原大門」が見えてくる

 

ここがあの吉原の入口

 

吉原は元々、1617年、現在の人形町付近に始まった

 

しかし、次第に江戸の中心地になっていったため、1655年に現在の千束村へ移転することになった

 

以後、人形町あたりにあった頃を「元吉原」、現在地に移転後を「新吉原」と呼ぶ

 

さて、この大門だが、遊女たちの逃亡を防ぐため、山谷掘沿いのみで、吉原は外の世界から隔絶されていた

 

今回参加されたお客様が言っていた

 

「吉原跡は新宿歌舞伎町のイメージで、一大繁華街と思ってきましたが、実際は、普通の住宅街で、子供も普通に歩いている町なんですね。ちょっと誤解していました」

 

吉原は負の遺産もあるが、江戸時代の文化・流行の発信地だったことを、もっとアピールしてもいいんんじゃないかと思う

 

(もちろん、一歩入ると、色々ありますが・・・) 

 

 

出典 新吉原大門 | 台東区 今昔物語 | 地域密着型新聞らいふ
出典 新吉原大門 | 台東区 今昔物語 | 地域密着型新聞らいふ

7.『お歯黒どぶ跡』

 

遊女の逃亡を防ぐため、吉原の周りには「お歯黒どぶ」と呼ばれる大溝があった

 

初期には幅約9m、江戸末期から明治初期は約3.6m、明治36年には約90cmの堀が巡らされていた

 

しかし、実際に逃亡する遊女は少なかったようである 

 

 


8.花魁が履いていた「三本歯」「上草履」

 

江戸時代から続く履物屋

 

先日、下見で伺った際、女将さんに「7/2(日)にまた来ます」と

伝えておいたところ、お店を開けていてくれた

 

女将さんに感謝です!

 

本当に歴史を感じる「三本歯」

 

当時の花魁が履いて八の字に歩いていたもので、一本の桐の木をくり抜いて作った超レア品

 江戸時代の吉原を想像できる貴重なものである 

 

今後もずっと大事に保管しておいてくださいね 

 


9.春慶院 高尾太夫墓

 

予定にはなかったが、時間があったので、春慶院「高尾太夫墓」を廻った

 

新吉原の大店 三浦屋の最高位の花魁で、代々「高尾太夫」を名乗った

 

この墓は二代目高尾太夫のもので、万治2(1659)年に死去したことから「万治高尾」と呼ばれている

 

右面に遺詠「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻んである

 

 


10.吉原神社

 

かつて吉原遊郭に祀られていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社

 

昭和5年に現在地に新社殿を造営したが、昭和20年の東京大空襲で焼失

 

昭和43年に現社殿が造営されて現在に至る

 

御朱印は吉原神社、吉原弁財天共にこちらでもらうことになっている

 

 


11.『吉原弁財天』(大震火災殉死者追悼記念碑)

 

昭和10(1935)年に、吉原神社に合祀された吉原弁財天には、関東大震災に纏わる悲しい歴史がある

 

火災から逃れようとした遊女たちは廓の中では逃げ場がなく、このため、池に飛び込まざるをえず、490人が亡くなったという悲劇が起こった

 

その後、この池はNTT吉原ビル建設時に埋め立てられた

 

大震災で亡くなった人を慰霊するため、大正15(1926)年に震災殉難慰霊の観音像が 建立された

 

  


12.『炎に消えた遊女を癒す家田荘子さん』

 

当日、吉原弁財天を訪れた際、作家で僧侶でもある家田荘子さんが読経されている場面に遭遇した

 

家田さんは関東大震災で亡くなった遊女を供養するため

18年間、毎月、この吉原弁財天を訪れている

 

彼女は人生を振り返ると、「供養するため、自分が生を受けた」と思い、最後の一人が安らげるまで続けるという 

 

 

 


13.『吉原弁財天』御朱印

 

「 弁財天」の文字を囲む図柄は「よしわら」というひらがなを表す

 

「よし」の部分は、弁財天の遣いが蛇であることから、蛇に見立てた絵柄となっているようだ

 

眼の前で書いてもらったが、あっという間に完成

 

何となくアートな感じがいい!

 

 


14.「新吉原」という雑貨でカッコいい吉原へ

 

吉原弁財天を出て、目の前の喫茶店の女将さんにちょっと挨拶

 

下見の時に伺った際、吉原に纏わる色々な話を聞かせて頂いた

 

さてここから歩いて10分、「岡野弥生商店」へ

 

こちらの店主は吉原生まれ、吉原育ち

 

最初は雑誌の編集の仕事をしていたが、どうも自分には合わないかなと退職 

 

その後、色々な仕事をしたが、さびれていく吉原を何とかしたいと、一念発起して「新吉原ブランド」のショップを立ち上げた

 

 ・フローティングペン、団扇、千社札、手ぬぐいなど

デザインはすべて店主がやっている 

 

江戸文化・流行発祥の地として再び、吉原をイメージできる

ちょっと艶っぽい江戸土産

 

なかなか他では買えない

 

新しい東京土産になるかも・・・

 

 



15.あな太朗「穴子三昧フルコース」

 

最後はお待ちかねのランチ

珍しい穴子料理の数々

 

①肝(コリコリとした食感と鰻よりも  あっさりした味が日本酒にピッタリ)

②刺身(食べられる所がめったにない)

③八幡巻(甘辛のタレと外側の焼いたカリカリ感最高!)

④あな玉(穴子の出汁巻き)中の煮あなごと出汁巻きが絶妙のバランス

⑤穴子丼(煮あなごのふわふわトロトロ)

 

その他炙り、天ぷらもあり、もう言うことなしの美味しさです!


当日、皆さんに出したクイズです、何問答えられますか?

今回、初めて全問正解者が出ました、 おめでとうございます!

 

1.待乳山聖天

  二股大根と巾着をモチーフにした装飾が見られる。巾着は財宝で商売繁盛を表すが、二股大根は何を表しているか

  ①飢えることがない ②夫婦和合、縁結び、子孫繁栄 ③農産物の豊作

 

2.今戸神社

  都内には他にも招き猫発祥の地と呼ばれている場所がある(豪徳寺、自性院)。その中で小判を握っている猫はどこのものか?

  ①今戸神社 ②豪徳寺 ③自性院

 

3.山谷掘公園

  当時、この堀は吉原への通路の一つだったが、吉原通いを別名「●●通い」とも言った

  ①遊女 ②山谷 ③大門

 

4.見返り柳 衣紋坂

  見返り柳を過ぎるとエモン坂があるが、なぜ、「く」の字に曲がっている?

  ①馬やかごのスピードを落とさせる ②洪水になったとき、水の流れ方向を変える ③外の街道から見えないようにする

 

5.吉原大門

  大門を入るとそこは吉原。吉原は遊女の逃亡や犯罪者の侵入を防ぐため、●●と呼ばれるものが設置されていた

  ①外堀 ②内堀 ③お歯黒どぶ

 

6.一葉記念館

  明治26(1893)年、一葉は新吉原にも近い下谷龍泉寺町で●●を経営していた

  ①本屋 ②荒物雑貨駄菓子屋 ③履物屋

 

7.吉原神社

  吉原弁財天の御朱印の「弁財天」の文字を囲む図柄は「●●」というひらがなです

  ①よしわら ②べんざい ③じんじゃ

 

8.紺屋高尾

  美しさと気立ての良さ、高い教養を備えた紺屋太夫。3年がかりで金を貯めて会いに来た●●職人の誠実さに心を打たれ、年季が明けると夫婦になった。

   ①家具職人 ②植木職人 ③染物職人

 

9.廓詞

  私「わちき」、そうです「そうでありんす」、お客「主(ぬし)さん」等の廓詞、「むしがいたい」の意味は?

  ①腹が痛い ②頭が痛い ③足が痛い

 

10.けっとばし屋

  このあたりにはさくら肉(馬肉)の店が多かったが、なぜ?

  ①軍鶏肉が入りにくかった ②百姓が馬を連れてきて、これを売って遊んだため 

 

 

回答

1.②、 2.③、 3.②、 4.③、 5.③

6.②、 7.①、 8.③、 9.①、 10.② 

                                                                                以上