私は、江戸時代、幕末に関連した場所を歩くことが多い。
しかし、今回は昭和、それも戦時中の痕跡を訪ねて、王子周辺をぶらっと散歩しました。
王子は以前、王子稲荷や装束稲荷など、狐に纏わる痕跡を歩いたことがありますが、
前回とはちょっと違った王子周辺の一面を見ることができました。
1.「軍都王子」の歴史
天保11(1840)年、高島秋帆が西洋の大砲を採用するよう幕府に建議して10年後、幕府は嘉永3(1853)年に湯島(現 医科歯科大学・順天堂大学付近)に鉄砲製造所を設置しました。
その後、元治元(1864)年、関口水道町(現 文京区江戸川公園対岸)に大砲製作所を設け、さらに滝野川村(現 北区音無橋上流)に反射炉の建設を開始しましたが、これは明治維新により、未完に終わりました。
新政府は関口の施設を受け継ぎますが、明治4年に小石川水戸藩邸を陸軍用地として、兵器製造を行いました。
現在の東京ドーム周辺一帯で、後に、東京砲兵工廠と呼ばれました。
この施設が明治38年から大正12年にかけて、この北区中央公園周辺に移転してきました。
王子周辺では明治5年に赤羽の袋町に火薬庫が設置されました。
その後、砲兵工廠の後身の東京陸軍第一造兵廠十条工場(現 北区立中央公園)、東京陸軍第二造兵廠王子工場(現 北区立中央図書館周辺)などが移転してきて、赤羽の軍施設と合わせ、「軍都王子」と呼ばれました。
この工廠では小銃弾や機関銃弾が製造されており、その他、砲弾用の信管や、後には照準機や双眼鏡用のレンズなども製造されました。
これらのほとんどが終戦まで残り、この地域は軍都の面影を残してきました。
1.北区中央公園文化センター
どこかでみたことがあるような建物ですが、市ヶ谷防衛庁にある旧士官学校庁舎に似ています。
アメリカ軍接収時は東京兵器補給廠の一部として、使用されました。
2.北区中央公園文化センターの歴史
現在、この建物の外観は真っ白ですが、これは終戦後、接収したアメリカ軍が外壁を白く塗り直したからです。
本来は茶色だったようです。
昭和36(1961)年から昭和41年頃までは、アメリカ極東陸軍地図局の活動拠点となり、最後はベトナム戦争の地図作成をしていました。
地図局がハワイに移転した後、昭和43年には、ベトナム戦争の傷病兵を収容する王子野戦病院が開設されました。
一帯が「キャンプ王子」と呼ばれたこのあたりはベトナム反戦運動が盛んで、野戦病院開設直後の昭和43年3月には、デモ隊が病院に突入して一部を占拠する事件が発生し、179名の逮捕者も出ました。
昭和46年10月15日、ついにこのキャンプ王子は米軍から日本に返還されました。
3.四本木稲荷神社(よもとぎいなり)
かつて、陸軍第一造兵廠の東北端にあった電車門の南隣に四本木稲荷神社がありました。
この神社には次のような縁起があるそうです。
この工廠を創設したとき、この地域には小さな古墳がいくつか点在していました。
しかし、そんなことにはお構いなしに取り壊して工廠を建てたのですが、なぜか、幹部連中に不祥事が続出したのです。
そこで、古墳の主の祟りだという噂が立ったので、それらの霊をまとめて構内社として祀り、四本木稲荷とあがめたというのです。
その後、滝野川にも分社ができて、そこも四本木稲荷と呼ばれていました。
昭和20年5月25日の大空襲で工廠が全焼したとき、この社殿は類焼を免れたものの、終戦後、新憲法で官庁と神社が無縁になったので、神霊は王子稲荷へ合祀され、本殿と拝殿の建物は払い下げられて滝野川の四本木稲荷に移築されました。
境内の一角には、黒色火薬を製造した圧輪(火薬原料を混合し、粉砕する際の石臼状のもの)を利用した忠魂碑が、「火具製造所一同」名で、建立されています。
これは、廠内で機械による外傷も多く、時には数十名は命を失うような事故もあって、それらの慰霊のための忠魂碑です。
4.北区中央図書館
旧軍用地に最後まで残った赤レンガ倉庫。
旧陸軍東京第一造兵廠第一製造所二七五号棟(大正8年)だけは、跡地に建設された北区中央図書館の一部として活用・保存されています。
赤レンガについている金具はシャフトの軸受けを外側から固定するためのものです。
造兵廠の中には多くの工作機械があり、それらを動かすモーターの回転はベルトとプーリー(車輪)により、天井付近のシャフト(回転する金属の軸)に伝えられます。シャフトは長く、そこから多くのベルトとプーリーに回転が伝えられます。
こうして、一度にたくさんの工作機械を動かしたということです。
5.陸上自衛隊十条駐屯地
ここは元東京第一陸軍造兵廠十条工場。
こちらには明治から大正の工場や倉庫が22棟も残っていました。
しかし、それらは、平成に入って次々取り壊され、保存されたのは、変圧所として使用された254号棟の正面ほか、ごくわずかになっています。
十条駐屯地の煉瓦塀は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年、この地に建設された東京砲兵工廠銃包製造所で使用されたものの一部を保存したものです。
6.ちんちん山児童公園
軍用軌道の跨線橋築堤下の道路トンネル入り口。
トンネル上部についている紋章は東京砲兵工廠のもの。
「ちんちん山」とは軍用軌道を走る列車が、チンチンと鐘を鳴らしながら通過したことから、軌道の築道の築堤をそう呼んだようです。
北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く存在しており、その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。
この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。
そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。
かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがあり、このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。
現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が公園内でモニュメントとして使われています。
7.電気軌道(トロッコ)線路敷跡
板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
軌道は北区十条の銃包製造所や王子の分工場ともつながっており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
この軌道は750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車はその車体の形状から「だるま電車」とも言われ、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。
8.加賀西公園(圧磨機圧輪記念碑)
幕末までの手工業的生産をしていた火薬生産の近代化を図るため、慶応元(1865)年、沢太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学びました。帰国の際にベルギーで買い求め、持ち帰ったものです。
明治9(1876)年8月に、旧加賀下屋敷跡地の約3万坪の敷地に完成した陸軍砲兵廠板橋火薬製造所で用いられ、同39年11月有煙火薬の製造を廃する日まで昼夜運行されました。
この記念碑は実際に石神井川の水を利用して火薬製造に使われていた実物で、大正11(1922)年に陸軍省が設置したものです。
幕末にベルギーから運んできたものが今でも残っているんですねぇ。
しかし、なかなかの迫力です。。。
王子周辺には、このように戦前・戦時中の痕跡がまだ多く残っており、そんなに遠くない過去の歴史を振り返ることが出来ます。
たまには、このようなぶらっと散歩もよいのではないでしょうか。
コメントをお書きください