江戸時代、向島は、春は花見、夏は花火、秋は月見、冬は雪見というように、四季折々の『粋』が楽しめる景勝の地でした。
今でもそんな風情を楽しめる「技」が見られます。
1.羽子板資料館「鴻月」
館内には様々な押絵羽子板がところ狭しと並んでいます。
これらはすべて、店主が一人で手作りされているとのこと。
目の表情など、全て違うので見ていて飽きません。
押絵羽子板とは中国から伝わった技法で、厚紙に布を張り、綿を入れて立体感を持たせたもの。
当時の浮世絵の流行と相まって、庶民の間で流行して、歌舞伎の人気役者や浮世絵の美人がなど全盛を極めました。
あとを継ぐ人はいるのですかと尋ねると、今はなかなか難しいんですよとのこと。
このような伝統のある「技」はなくしてはならないと思いますが、実際、商売となるとなかなか難しいようです。
女の子の出産祝いや歌舞伎ファンのたしなみなど、江戸情緒が伝わる高尚なお土産として喜ばれているそうですが、最近の少子化で厳しいようです。
中にはとっても可愛らしい小さな羽子板がありました。
これは「豆羽子板」と呼ばれるもので、これも小さくても全部手書き、手作りです。
本当に手間のかかる仕事だと思いましたが、1つ仕上げるのにおよそ2週間くらいで出来上がるとのことです。
意外と早くできるもんだなと感心しました。
2.隅田公園「旧水戸藩下屋敷」
江戸時代、ここ隅田公園には、水戸徳川家の下屋敷がありました。
また、明治維新後から関東大震災までは、小梅邸と呼ばれた水戸徳川家の本邸でした。
明治時代の小梅邸には、当主の徳川慶篤らが住んでいましたが、当時、松戸に住んでいた最後の水戸藩主徳川昭武は、小梅と松戸を頻繁に往復し、昭武の兄である最後の将軍 徳川慶喜もたびたび小梅を訪れています。
明治8(1875)年、明治天皇の小梅邸行幸がありました。
明治天皇は小梅邸にて義烈両公(徳川光圀・徳川斉昭)の書や水戸徳川家に伝わる品々を天覧になり、水戸徳川家の尊皇の志に感銘を受けられました。
小梅邸への行幸は、後に東京遷都後に途絶えていた宮中花宴の復活とも言われています。
明治天皇はその後も小梅邸へ六回行幸をされています。
今でも当時の大名屋敷の面影が残っている隅田公園、少し歩くと「牛島神社」もあり、ぶらっと散歩にはいい感じです。
3.三囲神社(みめぐりじんじゃ)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。
創立年代は不詳。
伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。
その中に、右手に宝珠、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。
このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。
三囲の名称はここに由来するという。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めました。
理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたからです。
閉店した池袋三越前にあったライオン像が寄贈されています。
なぜ、神社に狛犬ではなく、ライオンがいるのだろか?と不思議でしたが、それで分かりました(笑)
4.白鬚神社内「岩瀬鷗所の墓碑」
天暦5(951)年、元三大師良源が白鬚神社(滋賀県高島市)の分霊をこの地に祀ったと伝えられる。
明治16(1883)年、こちらに「岩瀬鷗所君の墓碑」が建立されました。(鷗所は岩瀬忠震の号)
岩瀬は昌平校教授を歴任するなど優秀で、安政元年1月22日、永井尚志、大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。
その後、安政4年12月、井上清直と共に日米修好通商条約交渉の全権委員となり、アメリカハリスと交渉にあたります。
交渉は翌5年1月までに14回行われ、井上と岩瀬は全力でハリス側が作成した条約案を審議しました。
ハリスはこの二人の態度に感嘆したちと言われています。
草案合意後、条約勅許を得るため、安政5年、老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の勅許を得られませんでした。
4月、江戸帰着早々に、井伊直弼が大老に就任します。
井伊大老からの指示は「勅許を得るまで、条約調印は引き延ばしせよ」というものでした。
しかし、岩瀬は即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き延ばし交渉に応じなかった場合、調印してもよいか」と質し、「その場合にはやむを得ない」との言質をとった上でハリスとの交渉に臨みました。
ハリスは当然、引き延ばしに応じなかったため、安政4年6月19日、井上と岩瀬は全権として条約に調印します。
幕府内からの非難に対し、岩瀬は「徳川よりも社稷(しゃしょく)(日本国家)が重い」と答えたと伝わります。
井伊大老はこうした岩瀬を危険視し、将軍継嗣問題で、一橋慶喜の擁立を目指す動きをしたこともあり、安政の大獄が始まると、幕府内では岩瀬が一番の標的となってしまいました。
岩瀬は作事奉行に左遷され、さらに役職を罷免され、永蟄居を命じられます。
そして向島の別宅であった「岐雲園」で隠棲し、文久元年7月16日に亡くなります。享年44歳でした。
当時の絶対権力者であった井伊直弼に対し、一歩も引かず、自分の考えを貫いた岩瀬でしたが、最後は大変残念な結果となりました。
もしも、岩瀬が幕府の中枢に残っていたら、幕末の歴史は変わっていたかもしれません。。。
5.セイコーミュージアム
もともと「セイコー時計資料館」として1981年に開設された施設でしたが、2012年4月、セイコー創業130周年の記念事業として全館をリニューアルし、「時と時計」に関する資料・標本の収集・研究を目的として「セイコーミュージアム」へと生まれ変わりました。
100mの山縣亮太選手はセイコー所属なんですね。
先日の日本選手権でもケンブリッジ、桐生選手をおさえて、優勝していました。
なかなかのイケメンです(笑)。
6.日本一 きびだんご「吉備子屋」
「吉備団子1本下さい」と言ったところ、「うちは5本が1人前です」と言われ、食べられるかなと心配しましたが、出てきた団子を見ると、かなり小さめだったので大丈夫でした。
何と、団子が温かいのです。ほかほかの吉備団子。
きな粉も甘さ控えめで、ペロッと食べてしまいました。
さすが、日本で唯一の吉備団子専門店、お客さんが並んでいるだけのことはありました。
7.すずめの御宿「すき焼き蕎麦」
昭和の40年代初め、向島界隈は料亭が90店もあり、粋な向島芸者や旦那衆が歩く、大きな花街でした。
少なくなったとはいえ、今でも料亭はこのあたりに15店舗はあるそうで、都内では一番大きな規模の花街です。
お店の方に聞いたところでは芸者さんも200名くらい、いるそうです。
こちらのお店は料亭の女将が立ち上げた蕎麦屋だけに、門構えもしっとりした情緒があります。
江戸初期、蕎麦のつゆは味噌と大根おろしだったそうです。
このお店では、その江戸つゆの美味しさと「粋」が味わえます。
今回はこのお店の名物「和牛すき焼き蕎麦」を食しました。
蕎麦つゆと割り下でつくられた出汁に、蕎麦をつけて、肉や具材と一緒に卵に浸して食べます。
シメでは、ごはんを出汁に入れて、残っている具材と一緒に雑炊風にして、また違った味を楽しみます。
店内は落ち着いた雰囲気で、向島の情緒をちょっぴり味わえます。
たまに芸者さんも蕎麦を食べに来られるそうですが、今回は残念ながらお目にかかれませんでした・・・(笑)
コメントをお書きください