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【第15回】幕末ぶらっと散歩「南千住」をやりました!

延命寺「首切り地蔵」
延命寺「首切り地蔵」

7月7日(土)、幕末ぶらっと散歩「南千住」を実施しました!

もう絶対に雨だと思っていたのですが、なぜか天候にも恵まれて(暑いくらい)、幕末の史跡を中心に、12名でぶらっと散歩。

 

南千住駅を出発して、三ノ輪駅周辺まで約3時間の散歩と下町ビストロでワイワイガヤガヤのランチ会です。

 


1.松尾芭蕉「矢立初めの地」

 

「奥の細道」紀行文によれば、元禄2(1689)年3月に、隅田川を北上し、千住の地に上陸し、奥州へと旅立ちました。

 (昨年11月の越中島~清澄庭園のぶらっと散歩で、芭蕉が千住に向けて旅立った江東区清澄周辺を散策しました)

 

矢立初めの句「行く春や 鳥啼 魚の目は泪」

 

文政3(1820)年、荒川区南千住の素盞雄神社境内に句碑が建てられました。

残念ながら、時間が足りず、当神社には行くことができませんでした。

スミマセン・・・

 

 


2.延命寺「小塚原刑場跡」

 

小塚原刑場は、慶安4(1651)年、千住大橋南側の小塚原町に創設されました。

広さは約1800坪ほどあったそうです。

 

小塚原町は万治3(1660)年、千住宿に加えられ、小塚原刑場は宿場町の一部になりました。

 

ここでは磔刑(はりつけ)、火刑(ひあぶり)、梟首(獄門)が行われました。

また、腑分けや刀剣の試験場(おためし場)でもありました。

 

明治初めまでにこの地で20万人以上の処刑が行われ、当時は見せしめの意味もあり、埋葬せず、野ざらしの状態で遺体を放置していました。

そのため、このあたりは臭気が充満し、野犬やイタチが食い散らかし、大変な様相だったようです。

 

元々、ここは小塚原刑場の一部で、小塚原回向院があった場所でしたが、JR常磐線の線路を作ったときに、分断されたため、昭和57年に線路の南側部分が延命寺として開山しました。

 

当時、線路を作るため、この辺りを掘ったところ、大変な量の人骨が出てきたらしいです。

 

お地蔵様は刑死者を弔うために寛保元(1741)年に建てられました。

 

このお地蔵様は2011年の東日本大震災で、壊れてしまいましたが、墓地のお墓は一つも崩れなかったとのこと。

このお地蔵様が被害を一手に引き受けてくれたのでしょうか。

現在は修復されてよかったです。

 

 


3.隅田川駅

 

明治30(1897)年開業。

福島の常磐炭田で採れた石炭を東京で受け入れる窓口として誕生しました。

当時は貨物駅と隅田川が直結していて、船で運ぶことが出来たので物流の拠点として重要な場所でした。 

 

 


4.泪橋

 

罪人は、小塚原刑場に連れて行かれる前にここを通ります。

罪人にとってはこの世との最後のお別れの場であり、その家族や身内の者には、処刑される者との今生の別れの場でした。

 

お互いがこの橋の上で涙を流したので、この名前が付けられました。

なみだは「涙」では ”戻る”の字が使われますが、もう二度と戻ってくることはないので「泪」に変わったと言います。

 

「泪橋」と言えば、私たちの世代では「あしたのジョー」を思い出します。

漫画の中では泪橋の下に丹下ジムがありましたが、実際、その時には既に暗渠化されていたようです。

 

この漫画の中で、泪橋を渡ってくる者は人生に敗れたものがほとんどだったので、ジョーはこの橋を「拳」一つで逆に渡って、世間を見返してやるというのがコンセプトの一つでした。

 

 


5.小塚原回向院

 

小塚原刑場の悲惨な状況を見た墨田区の回向院の住職 弟誉義観が、寛文7(1667)年に刑死者を供養するため、創建したのが常行堂で、その後、小塚原回向院となり、処刑された罪人をここに葬りました。

 

「泪橋」で最後の別れをして、「延命寺」のある小塚原刑場で処刑されて、「回向院」で埋葬・供養されるという江戸時代のディープな歴史がここにありました。

 

 


6.回向院 幕末志士の墓「吉田松陰」

 

松陰が安政の大獄で、江戸に送られてきたのは安政6(1859)年6月24日。

 

幕府に呼ばれ、受けた尋問は特に梅田雲浜との関係と御所内にあった幕政批判の落とし文のことでした。

これについては、嫌疑が晴れたにも関わらず、「至誠をもってすれば動かぬものはいない」と信じていた松陰は自分の所信を熱く語り、老中間部詮勝殺害計画まで自白してしまう。

これにより、最終的に小伝馬町で斬首に処されました。享年30。

 

伝馬町獄で処刑された松陰の遺骸は門下生により、小塚原に埋葬されましたが、この墓は幕府により、倒されました。

 しかし、文久2(1862)年11月に大獄の国事犯の大赦令が出たときに、門人 久坂玄瑞らによって再建され、今日に至っています。

 

ただし、松陰の遺骸は文久3(1863)年1月、門人 高杉晋作らによって、荏原郡若林村太夫山(のちの松陰神社)に改葬されました。

 

 


7.回向院「幕末志士の墓」(橋本左内)

 

「黎園墓」は安政6(1859)年10月7日、伝馬町獄で処刑された橋本左内の墓です。

 

左内は適塾で西洋医学を勉強し、のちに政治を志して、藩主 松平慶永の片腕となって、一橋慶喜擁立のため、奔走しました。

(少し前の ”西郷どん" でやっていました)

 

関係者は最初、「橋本左内墓」と刻んで墓碑を建てましたが、幕府によって破壊されたので、別号の「黎園」を刻んだ墓を目立たぬように建てました。

 

のち、「黎園墓」はと遺骸は故郷福井に移され、福井でも墓碑が建てられたため、「黎園墓」は再び、ここ回向院に戻ってきました。

 

傍らには左内の事績を刻んだ「橋本景岳之碑」(明治17年建立)も建てられています。

 

 


8.回向院 幕末志士の墓「関鉄之介」と「その情婦(いの)」

 

関鉄之介は水戸藩士で、桜田門外の変における実行部隊の指揮者。

その後、幕府の探索が厳しい中、薩摩藩を頼って近畿・四国方面を逃げ回ったのち、薩摩へ向かおうとしましたが、かなわず、水戸藩領向かいます。

そして越後に逃れるも、湯沢温泉近くで捕えられます。

その後、江戸に送られ、文久2(1862)年に小伝馬町の牢で斬首されました。享年39。

 

いのは新吉原の谷本楼の遊女(当時の名前は瀧本)で、そこで運命の人 関鉄之介に出会います。

二人の交際は一時途絶えますが、再び出会ったとき、また恋の炎は燃え上がります。

 

鉄之介が桜田門外の変を起こし、逃亡の旅に出た後、いのは共謀者として捕えられ、小伝馬町の牢屋敷で鉄之介の行方について、厳しく尋問されます。

執拗な鞭打ち、石抱きで攻め立てられるも、いのは口を割らず、血を吐いて気絶、そのまま獄中で亡くなりました。

 

ここ回向院には 桜田門外の変に殉じた いの(瀧本)を慕い、顕彰して「烈婦瀧本之碑」が建っています。

その篆額が、渋沢栄一の書だと見つけた時は驚きました!

 

 


9.回向院 幕末志士の墓「有村次左衛門」

 

薩摩藩士(兄は有村俊斎)。安政の大獄に憤慨し、水戸藩士らと起こした桜田門外の変で井伊直弼の行列を襲撃しました。

有村は井伊直弼の駕籠を襲い、殺害した後、首級をあげます。

 

有村は、井伊の首級を持ち去ろうとしましたが、彦根藩士に後頭部を斬られて、重傷を負い、若年寄遠藤家付近で力尽き、自害しました。享年22。

 

辞世の句「岩が根も砕かざらめや武士の国の為にと思ひ切る太刀」

 

 

その他、ここには安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変などの関係者の墓碑がありますが、もしも、桜田門外の変が起こらなかったら、どうなったのだろうかと考えるととても興味深いです。

 

 


10.円通寺「黒門」

 

慶応4(1868)年の上野戦争で亡くなった彰義隊の遺体は、賊軍の立場だったので、放置されたままでした。

そんな状況の中、円通寺の住職・佛磨和尚が現在の上野公園 西郷隆盛像あたりで、亡くなった彰義隊士の火葬を行い、弔いました。

 

そんな縁から、明治40(1907)年に、最大の激戦地にあった黒門が円通寺に移設されました。

至る所に銃弾の跡が残る門は、この戦いがいかに凄まじいものであったかを知ることができます。

 

 


11.円通寺「彰義隊 墓」

 

境内の一角には、旧幕府軍の幹部によって建てられた碑が並んでいます。

 

また、彰義隊供養を助けた三河屋幸三郎(寛永寺の御用商人)が、旧幕府軍を弔うために密かに建てた「死節之墓」もあります。

 

賊軍となった旧幕府軍戦死者を供養することが憚られた世相でしたが、円通寺だけは埋葬供養の許可を得ていたので、参詣する人も多かったと言われています。

 

 


12.浄閑寺

 

1655年に創建。安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際に、この寺に投げ込んで葬ったことから「投げ込み寺」と呼ばれています。

 

大地震で亡くなった、引き取り手のない遊女の遺骸は、真っ裸です巻きにされ、こちらに掘られた穴に投げ込まれました。

亡くなった遊女の名簿が当寺に残っており、その平均年齢は21.5歳くらいだったそうです。

 

今でいえば、まだ大学生の歳です。

ここにも江戸時代の悲しくて切ない歴史の1ページがありました。。。 

 

 


12.浄閑寺「新吉原総霊塔」

 

安政の大地震で亡くなった遊女を供養するため、建てられました。

現在の塔は昭和4年に寛政5(1793)年以来の供養塚を改修し、名も「新吉原総霊塔」としたものです。

 

墓前には女性が使用するアクセサリーや化粧品などが供えられており、横にある窓を覗くと、おびただしい数の「骨壺」が見えます。

当時の悲しい歴史を垣間見ることができます。

 

 


13.浄閑寺「首洗い井戸」

 

ちょっとした遺恨で本庄助太夫を殺した平井権八が鳥取藩から江戸に逃亡した後、本庄の遺子である助七・助八兄弟は仇をうつため、江戸に出て、三ノ輪に家を借りて権八を探します。

しかし、万治3(1660)年、逆に権八に知られてしまい、兄助七は殺されてしまいます。

弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを無残にも権八に襲われ、殺されてしまいました。

 

なんとも悲しくて切ない物語です。

 

実はこの話は前回のぶらっと目黒で散策した目黒不動尊前にあった比翼塚に話がつながっています。

これも吉原の遊女に関係したお話しでした。

 

江戸時代のディープな話が東京の各所に残っており、その時代に思いを馳せながら、それらの史跡を巡ると、何とも不思議な気持ちになります。

 

 


14.ランチは三ノ輪にある下町ビストロ「ルミエル」でフレンチを満喫

①ジェル「かに、ほたて、うに、なす、きゅうり」

②メイン「真鯛のポワレ バルサミコ酢ソース」

③メイン「牛ほほ肉の赤ワインソース煮込み」

④デザート

 

事前にお客様を3チームに分けて、クイズに挑戦していただきました。 

ランチ会でのクイズの回答発表は大盛り上がり!

優勝チームおめでとうございました!

 

フレンチを食べながら、ビールとワイン4本空けました!(笑)

真っ昼間からよく飲んで、「わ(話→和→仲間の輪)」を皆様楽しんでいただけました。

 

今回は、幕末の中でもディープな史跡が多く、いつもとはちょっと違った雰囲気の場所を巡りました。

ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました!

 

(追伸)

まだ先の話になりますが、10月7日(日)、清澄庭園「涼亭」で食事とお酒を楽しむ会をやります。

これが3回目になりますが、今回が最後です!

回遊式庭園の魅力を中から味わえる貴重な機会ですので、よろしければご予定に入れていただけると幸いです。

 

 


15.今回のクイズはこんな内容でした!

 

(1)小塚原刑場跡

   江戸時代、小塚原刑場、鈴が森刑場と共に、三大刑場と言われた●刑場が八王子にあった。

    ①大和田刑場、②下原刑場、③暗闇坂刑場

 

(2)隅田川駅

         貨物 隅田川駅は 、かつて●● の集散地として開設された。

     ①石油、②ガス、③石炭

 

(3)泪橋

         漫画 あしたのジョーでは泪橋の下に●●ジムがあったという設定だった。

         ①丹波、②辰吉、③丹下

 

(4)小塚原回向院「解体新書」

         解体新書の原本でもある「ターヘル・アナトミア」の著者は●人のクルムス。

         ①オランダ人、②イギリス人、③ドイツ人

 

(5)山脇東洋 日本最初の解剖

         宝暦4(1754)年、山脇東洋が●●において腑分けに立ち合い、人体構造を観察したのが日本最初の解剖です。

        ①京都、②大阪、③江戸

   

(6)回向院「橋本左内」

         橋下左内の墓碑の隣に建っている「橋本景岳之碑」。この篆額を書いたのは?

         ①松平慶永、②三条実美、③西郷隆盛

   

(7)円通寺

         円通寺を開いたとされる人物は だれか。

         ① 坂上田村麻呂、 ②八幡太郎義家、 ③源頼朝

 

(8)円通寺「新門辰五郎」

         辰五郎の娘(お芳)は●●の愛妾となった。

         ①勝海舟、②徳川慶喜、③山岡鉄舟

 

(9)浄閑寺

         浄閑寺の過去帳によると、死んだ遊女の平均年齢は●●歳。

         ①19.5歳、②21.5歳、③23.5歳

 

(10)「冷やかし」の語源と吉原

          買い物もしないで店先を覗くだけ、店に入っても買わずに見るだけの事 を「冷やかし」と言う。

          この語源となった江戸時代の吉原遊郭近くにあった職業は?     

           ①水販売 ②豆腐屋 ③紙職人  

 

 (正解)

(1)① (2)③ (3)③ (4)③ (5)① (6)② (7)① (8)② (9)② (10)③ 

 

今回、最高得点のチームは9問正解でした!

おめでとうございます!!