「銀ブラ」、今でもこんな風にいうのでしょうか。
そんな銀座のなかでも「THE 昭和」を感じられる場所を探して街発見散歩。
1.交詢社ビル
明治13(1880)年に福沢諭吉が提唱して、結成された日本初の実業家社交クラブが「交詢社」
その名前の由来は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来します。
その後、法人制度改革により一般財団法人に改組されています。
6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングを所有しており、「交詢社通り」という地名にもなっています。
昭和4(1929)年に建てられた歴史的建造物でしたが、2004年に以前の建物の一部を保存しつつ、建て替えられました。
2.出世街道
田中角栄元首相が銀座で飲んでいるとき、お呼びがかかり、国会へ向かう道として、通っていたということからその名の付いた銀座8丁目の細路地です。
「出世街道」と言う名前は地図にはありませんが、サラリーマンが何気なく、この道を通っているとか(笑)
この路地をまっすぐ行くと、道幅がだんだん広がっていき、最後は国会議事堂に突き当たります。(まさに出世街道?)
3.金春通り煉瓦遺構の碑
「金春通り」の名前は江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しています。
明治の世になって、江戸時代に発生した大火を恐れた明治政府は、銀座に延べ約10kmにわたる煉瓦街を造ります。
残念ながら、この煉瓦街は関東大震災で消失しましたが、昭和63年に煉瓦街の遺構が発掘され、江戸東京博物館に収蔵されました。
この遺構が、かつての金春屋敷跡内で発掘されたので、収蔵遺構の一部をゆかりの金春通りに碑として建立されました。
《金春色》
金春屋敷が安永9(1780)年頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転した後、幕末の頃になると現在の銀座七、八丁目西側の辺りは歓楽街となり、「金春芸者」の名が知られるようになりました。
能役者は幕府御用達の町人として、一般の町人とは別格の扱いを受けていました。
しかも、能役者は武士ではないので、拝領地に町人を住まわせてもお咎めはなかったようで、能役者の貸長屋には町人が住むようになります。
その後、次第に芸者も住むようになりました。
彼女たちは、おもてなしの才能に長けていたことから、江戸芸者の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ、金春通りは昭和40年代まで多くの芸者の集る花街として賑わいました。
この花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」です。
青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されています。
4.豊岩稲荷神社
豊岩稲荷神社が建てられた年月は不明ですが、16世紀に活躍した武将、明智光秀の家臣が、主家の再建を願ってこの地で神様を祀ったことが始まりと言われています。
もとは一般的な神社の形態をもっていたものの、相次ぐビル建設の影響で、現在のような姿に変貌したのだそうです。
宇気母智神(うけもちのみこと)を祀る豊岩稲荷神社は「縁結び」と「防火」の御利があると信じられています。
この神社を過ぎて、進むと ”あっ” と驚くことが見られます。
5.THE 昭和な袋小路
銀座のど真ん中、4丁目交差点近くに三原小路という裏通りがあります。
こちらには石畳があり、粋な感じの料理屋が並んでいます。
この通りから晴海通り寄りに一本行くと、何とそこには ”昭和” にタイムスリップしたような袋小路が。。。
賑やかな銀座4丁目交差点のNISSAN CROSSINGからほんの少し入ったところにこんな場所があったとは・・・
6.あなご専門店「銀座ひらい」
その袋小路の奥にひっそりとたたずむ、あなご専門店「銀座ひらい」。
外国人のお客様が結構多い、よく知ってますねぇ。
お店に入る1時間前、娘に銀座でランチしないかとメールを送っていましたが、返事がありません。
まあいいやと席に着き、野菜サラダを食べていると娘から返信が・・
娘「今、どこにいるの?」
私「銀座4丁目近くのあなご屋さん」
娘「今からだと20分後には着くよ」
私「それじゃあ、遅いな。もうサラダ食べてるから」
娘「じゃあ、タクシーで行くから、待ってて!」
そして、5分後、娘が到着。
私「本当に来たのか・・」
娘「だって誘ったの、そっちじゃない。えーと、私はこの『あなごのひつまぶし』お願いしまーす」
私はコースで頼んだので、最後のシメは ”煮あなご” の丼。
娘のひつまぶしは ”焼きあなご” 。これも一口食べたので、”煮”、”焼き” 共に試食できてよかった(笑)
丼以外にも、あなごの旨みを楽しめる白焼き、揚げたてのふわふわ感が堪らない天ぷらなど。
私は鰻も好きなのですが、歳のせいか、最近はあっさりしたあなごも大好きなんです(笑)
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