《幕末維新の痕跡を巡るぶらっと散歩》
今回は激烈な戦闘が行われた上野戦争の痕跡を巡ります。
上野と言えば、やはり西郷どんからスタート
1.上野公園「西郷隆盛像」
彰義隊は江戸無血開城後、江戸市中の警備を旧幕府から任されていました。
それは新政府軍の兵力が足りず、江戸市中の治安維持まで手が回らなかったからです。
しかし、彰義隊と新政府軍は江戸の各所で衝突を起こしたので、新政府軍は江戸の治安維持権限を旧幕府から奪い、軍司令官も西郷隆盛から大村益次郎に変更しました。
大村は彰義隊の江戸市中取締りの任を解き、武装解除するよう命じますが、彼らは簡単に応じることはなく、大村は彰義隊討伐をすべく、寛永寺正面口の黒門口と西側面となる谷中口から攻撃を行うことにしました。
そのとき、北の根岸方面はあえて手薄にして逃げ道を作りました。
黒門口は敵を高台に見るため、新政府軍にとっては不利になりますが、大村はそれを分かったうえで、薩摩兵に攻撃を命じます。
この指示に対し、西郷は「薩摩兵を皆殺しにするつもりか!」と聞くと、大村は「そうです」と答えたと伝わります。
当時、薩摩兵は最強だったので、当然といえば当然かもしれませんが、西郷に対し、そう言い切った大村もなかなかの人物ですね(笑)。
西郷の像ですが、その死から21年後の明治31年12月18日の除幕式が執り行われましたが、遺族として参列した糸子夫人はこの像を見て「あらよう!宿ンしはこげなお人じゃなかったこてぇー」と声を上げたそうです。
その意味するところは?
人前でこんな恰好をする人ではなかった? 顔が違う?
当初は軍服で騎馬姿が予定されていましたが、一部の反対で今の犬を連れてウサギ狩りに行く姿に変更されたようです。
今となっては、その姿に親しみを感じる人も多いのではないでしょうか・・・。
2.寛永寺「黒門」
この壁泉はかつてこの地にあった寛永寺「黒門」を表現しています。
当時の寛永寺は現在の上野公園のほぼ全域にわたる広さで、現在の公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があり、寺の正面入り口となっていて、その先に「黒門」がありました。
上野戦争ではこの「黒門」付近が最も激しい戦闘が行われた場所で、こちらで西郷も戦いました。
戦闘後、上野の山には200体以上の死体が転がっていましたが、新政府はほったらかしでした。
そこで、円通寺の住職らが申し出て葬りました。
この縁から、鉄砲の跡が残る黒門は南千住の円通寺に移設されており、彰義隊関係、旧幕府残党の慰霊碑も多く残されています。
3.彰義隊士墓所
西郷さんの像の裏に彰義隊士墓所があります。
ここは三河屋幸三郎らが隊士の遺骸を荼毘にふした場所です。
元彰義隊士の小川興郷らの尽力で墓碑が建立されましたが、これは建立費用の借金のかわりに持ち去られ、現在の「戦死之墓(山岡鉄舟筆)」と刻む石碑は明治14年の再建です。
その墓前にある「彰義隊戦死之墓」は寛永寺子院の住職たちが明治2年に新政府の目を憚って建てた初代の墓碑です。
「戦死之墓」を建立する際、発掘されたと伝わります。
脇に「発願回向主沙門松国」とありますが、これは僧たちの寺名である寒松院(かんしょういん)・護国院から一字ずつとったものです。
4.清水観音堂
清水観音堂は上野戦争で燃えずに残った一つで、本尊は平盛久念持仏と伝えられる千手観音菩薩坐像ですが、これにも逸話があります。
本尊の熱心な信者 広木弥兵衛は上野戦争翌日、明治元(1868)年5月16日、焼き尽くされた寛永寺境内を参拝した際、本尊が見当たらないので探したところ、堂のうしろの竹林で見つけました。
そこで弥兵衛は家に本尊を持ち帰り徹夜で礼拝し、翌日奉祠の僧即心院主と相談して近くの本所太子堂に移しました。
明治2年2月14日、寛永寺の僧は帰山を許されたので、弥兵衛は本尊を元の清水観音堂に戻しました。
堂も本尊も戦火を免れたのはこの本尊のお蔭と伝わります。
観音堂内には上野戦争における黒門での激しい戦いの様子が描かれた大きな絵馬がかかっています。
これも弥兵衛が明治23年に奉納したものです。
また、その絵の端には戦争で使われたアームストロング砲の砲弾が飾られていますが、かなりの大きさです。
5.寛永寺旧本坊表門と砲弾跡
寛永寺の旧本坊表門が両大師の前に移されています。
ここにも門柱などに上野戦争当時の弾痕が残っています。
6.徳川慶喜墓
西郷がめぐらした策略(江戸でのテロ活動)に業を煮やした庄内藩を中心とした部隊が三田の薩摩藩邸を焼き討ちし、薩摩藩士・浪士60人あまりが死亡し、100人以上が捕えられました。
これをきっかけとして慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まります。
薩長側に錦の御旗が掲げられ、形勢は決定的となり、徳川慶喜は松平容保、松平定敬らを連れて大阪湾の幕府軍艦に乗って、江戸に逃げ帰ってしまいます。
その後、慶喜追討令が出され、徳川家は朝敵となり、東征軍が出発し、幕府の滅亡が決定的となります。
慶喜は勝海舟を陸軍総裁、大久保忠寛(一翁)を会計総裁に任命し、実質的な幕府指導者とし、自身は寛永寺の小さな部屋で蟄居し恭順の意を示します。
次々回(2019/2/10)のぶらっと散歩では普段見ることが出来ないこの部屋を見ることが出来るツアーを開催しますのでご期待ください。
7.大雄寺「高橋泥舟墓」
勝海舟が、徳川家処分の交渉のため新政府軍西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟でした。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、主君の側を離れることができなかったので、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦、その鉄舟が見事にこの大役を果たしました。
泥舟は後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かります。
廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董品の鑑定などで後半生を送りました。
8.全生庵「山岡鉄舟墓」
江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、山岡鉄舟は3月9日、新政府軍の駐留する駿府に辿り着き、西郷隆盛と面会しました。
- 西郷から出された条件の一つ「将軍慶喜は備前藩にあずける」を鉄舟は拒みます。
- これに対し、西郷はこれは朝命であると凄みますが、鉄舟は「もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずです」と反論します。
- 西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の忠誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証しました。
- これによって奇跡的な「江戸無血開城」への道が開かれることになりました。
西郷のたっての依頼により、明治5(1872)年に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。
侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6(1873)年に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られています。
9.東京で一番のあなご寿司「乃池」
最後のランチは千駄木近くのすし乃池のあなご寿司。
私は何万円もする高級寿司店には行ったことがありませんが、こちらのあなごが3カン入った極上寿司は2500円。
この価格で食べられるあなご寿司では、東京で一番だと個人的には思います。
とろとろ ふわふわの食感と最後に炙って香ばしさを加えたあなご寿司。
これをきらいな人はいないのではないでしょうか。
本当に美味しいです!
コメントをお書きください