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【第19回】ぶらっと幕末歴史散歩「桜田門外の変」を実施しました!

12月23日(日)、あいにくの天候でしたが、ぶらっと幕末歴史散歩「桜田門外の変」を実施しました!

 

《桜田門外の変》

安政7(1860)年3月3日午前9時頃、節句の賀詞を述べるため、供回り約60名を従え、彦根藩邸を出た大老井伊直弼は400mほど離れた桜田門外で、 18名の浪士(水戸17、薩摩1)に襲われ、命を落としました。

 

1.この事件が起こった背景

①ペリー来航以来のグローバル化への対応(攘夷)

②国内は将軍継嗣問題

③井伊が勅許なしで日米修好通商条約に調印したことへの反発 

 

2.これに対する井伊直弼の強烈な弾圧(安政の大獄)

 

これに憤慨した水戸脱藩浪士たちの暴発テロが「桜田門外の変」です。

 

今回はこの「桜田門外の変」に関連した史跡を巡る散歩でした。

 


出典 国立国会図書館「東都名所外桜田弁慶堀桜の井」
出典 国立国会図書館「東都名所外桜田弁慶堀桜の井」

1.桜の井

 

名水井戸として知られた「江戸の名所」で、 井伊家表門外西側にありましたが、 加藤清正が掘ったと伝えられています。

縦約1.8メートル、横約3メートルの石垣で組んだ大きな井戸で、 3本の釣瓶で一度に桶3杯の水が汲め、 江戸城を訪れる人々に水を提供しました。

 

江戸名所図会にも紹介され、 安藤広重の 「東都外桜田弁慶桜の井」にも描かれています。
昭和43(1968)年、道路工事のため、 交差点内から約10メートル離れた現在地に移設復元されました。

 

江戸時代に描かれた浮世絵にある風景の一部がこのように現代に残っていると、「タイムスリップ」したような気分になれますね。

 

 


2.井伊掃部頭邸跡

 

この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主 加藤清正の屋敷でした。

加藤家は寛永9(1632)年、二代忠広のときに改易され、 屋敷も没収されました。

幕府は豊臣の影を感じる加藤家を目の上のたんこぶとして取り除いたのでしょうか・・・

 

その後、 近江彦根藩主 井伊家が屋敷を拝領し、 上屋敷として明治維新まで利用しています 。 

 

 


3.桜田門

 

寛永13(1636)年に現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ばれるようになりました。

外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっており、間に桝形があります。

大正12(1923)年の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修されました。

 

まさに、この場所で大老井伊直弼は150年以上前、襲撃されました。

 

《襲撃当日、事件を正面で見ていた桜田門の報告》

「今朝、五つ時(午前8時)頃、当御門の橋の方より傷を受けた侍ていの者、4.5人が番所へきて、内藤伊賀守さまへ案内してくれと言った。が、御役人様登城中なので、外陣の方へ控えさせておき、様子を聞こうとしたところ、そのまま出かけて桜田門外へ駈け出したのであとから追いかけたが、どこへいったか分からない。この段申し上げる」

 

目の前で起こった惨劇に対し、この報告・・・

止めようともせず、何やら他人事。。。

こんなことで、許されたのでしょうか?

 

   


4.旧法務省本館(上杉家江戸藩邸跡)

 

明治政府は諸外国との条約改正に先立ち,近代国家としての体制を整えるため、1886年に西洋式建築による官庁集中計画に着手し、司法省の庁舎(赤れんが棟)は、1888年に着工され,1895年に竣工しました。

 

赤れんが棟は,関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが、1945年の戦災により、れんが壁とれんが床を残して消失しました。

 

戦後、1950年までに改修され、その後、法務省の本館として使用されてきて、1991年に復原改修工事が始められ、1994年に創建当時の姿に復原されました。

 

桜田門外の変当日、襲撃者のリーダー関鉄之助ともう一人は現場至近のここ米沢藩上杉家屋敷脇に控えていました。

 

《襲撃当日、事件を間近でみていた上杉家の報告》

「今朝五つ時頃、井伊様ご登城と見ていると、松平大隅守邸前で何者とも知れず七、八人右行列へ抜刀で斬りこんだ様子だが、何分多勢の斬り合いで確かな様子は分からない。その節黒羽織姿で股立ちをとり(袴をめくり)、傷を負った者が一人、当辻番所の前へ走ってきたので、様子を尋ねたが、一言の答えもなく、黒ラシャの柄袋を取り捨て、すぐさま抜き身で右場所へ斬り合いにまかり出た。

 

まもなく馬乗袴の裾をとり、白ダスキをかけた者一人、抜き身に首を貫き、そのほか抜き身で六、七人、日比谷御門の方へ走っていったと番所から届け出た。右はわが藩の持ち場外ではあるが、容易ならぬ騒動、とりあえずお届け申し上げる。」

 

上杉家の反応「我が藩の持ち場外であるが」とは・・・

これは、すでに幕府による統治が壊れかけていて、幕府崩壊が進みつつあったことを示しているような気がします。

 

 


6.日比谷公園(心字池近く)

 

幕末とは関係ないですが、まだまだ紅葉が見られる日比谷公園です。

後ろに見えるのは「日比谷ミッドタウン」です。 

 

 


7.愛宕神社(出世の石段)

 

寛永11(1634)年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣の帰り、ここ愛宕神社の下を通りました。

季節は春、愛宕山には源平の梅が満開。

 

家光公は、その梅を目にして、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命じます。

しかし、この愛宕山の石段はご覧のようにとても急勾配で、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とても無理。。。

下手すれば、怪我ではすまず、命を落としそう、家臣たちは、みな一様に下を向いています。

 

家光公のご機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒り爆発!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッと上り始めた者が。

家光公はその者の顔に見覚えがありません。

「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」

「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」

 

平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段を上り降りし、家光公に梅を献上いたしました。

平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝わります。

 

「当日は二手に分かれて、この出世の石段を上りました!」

私は天候が悪く、石段の途中で足が滑っても危ないので、この日はお客様にエレベーターをお奨めしましたが、『出世をあきらめていない?(笑)』お二人がこの階段を上がられました。

何とかご無事に上られ、頂上で無事にお会いできてよかったです!  

 

 


8.愛宕神社(桜田烈士愛宕山遺蹟碑)

 

頂上には桜田門外の変の襲撃者たちの碑があります。

 

襲撃の当日、朝から雪が降っている中、井伊直弼の暗殺をめざす水戸浪士たちはバラバラに江戸に向かい、愛宕山神社に集結し、本懐成就の祈願をしました。

 

この神社は徳川家康の創建ですが、襲撃者たちにお願いされた神様も戸惑ったのではないでしょうか・・・(笑) 

 

 


8.ランチ懇親会「シュリンプガーデン」

 

文字通り海老がメインの「シュリンプガーデン」で、わくわくランチ。

 

①海老を効果的に盛り付けした前菜

②お待ちかね!世界最高品質のニューカレドニア産「天使の海エビ」を使用した豪華『海老フライ』

③最後のシメは海老スープが濃厚な『海老ラーメン』をバゲットと一緒に

思わず、バゲットが欲しくなる海老ラーメン、今までに食べたことがない逸品だと、お客様も絶賛でした!

 

次回の【第20回】は、2019年2月10日(日)上野寛永寺の特別参拝です。

普段は見ることが出来ない徳川歴代将軍御霊廟をご覧に慣れます。

また、ランチは谷根千にある、あなご寿司の名店「乃池」でふわとろのあなご寿司を味わいます。

是非この機会に徳川家菩提寺であり、上野戦争の舞台となった寛永寺に行ってみませんか!

 

 


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コメント: 2
  • #1

    参加した佐藤です (水曜日, 26 12月 2018 15:40)

    出世を諦め切れない?2人の内の一人でした(笑)。やっぱりここに来たらこの階段登らないとね❗ 桜田門外の変を忍ぶツアーでした。歴史を実地で学び、美味しいランチで締める  藤井さんのツアーは面白い❗

  • #2

    街発見くらぶ 藤井 (水曜日, 26 12月 2018 15:58)

    佐藤さん、出世の石段上り、お疲れ様でした。さぞかし、ご利益があると思います(笑)。今回は幕末歴史を中心にやりましたが、あまり堅苦しい歴史散歩ではなくゆるーい感じでいつもやってます。クイズも少々詳しい方でもほとんどがわからないようなマニアックなものをオリジナルで用意していますので、「運試し(笑)」の感覚で気軽にご参加いただけると幸いです。