《旧東海道の痕跡を巡るディープ散歩》
品川~大森周辺でを江戸を感じられる場所を巡りました。
1.品川寺「銅造地蔵菩薩坐像」
弘法大師空海を開山とし、大同年間(806 – 810年)に創建されたと伝わります。
スイス・ジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあります。
「梵鐘のエピソード」
明暦3(1657)年の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進と言われています。
この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝わりますが、その後、所在不明となっていました。
大正8(1919)年、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始。
外務大臣幣原喜重郎ほかの尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5(1930)年、同市の好意により品川寺に返還されました。
平成3(1991)年には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られ、品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となりました。
私はスイス ジュネーヴに行ったことはありませんが、この梵鐘はスイス帰りなんですね。
2.品川歴史館「土蔵相模」
歩行新宿(かちしんしゅく)にあった食売旅籠屋(めしうりはたごや)の相模屋は外側が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったので土蔵相模と呼ばれていました。
幕末の土蔵相模は高杉晋作ら長州藩攘夷派がイギリス公使館襲撃前夜に結集したり、桜田門外の変前夜に桜田烈士が参集した場所です。
また慶応2(1866)年、品川宿の窮民による打ちこわしを受けるなど、幕末歴史の舞台になった場所です。
先日、ぶらっと散歩で「桜田門外の変」に関連した愛宕神社に行きましたが、その前日に烈士たちが参集したと伝わる土蔵相模。
行ってみたいと思っていましたが、ここにありました。
3.品川歴史館「江戸の町」
江戸時代に整備された東海道、第一の宿場が品川で、そのジオラマがあります。
人や馬などその当時の宿場の様子がよみがえります。
4.大森貝塚遺跡庭園
貝塚とは大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっています。
エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。
明治10(1877)年、腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。
これが大森貝塚です。
発掘は同年9月から12月に行われ、明治12(1879)年には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版しました。
この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
(大森駅京浜東北線ホームにこの碑があります)
5.妙蓮寺「薄雲太夫の墓」
薄雲太夫の墓は「養性院殿妙亮日教大姉」とあり、「正徳元辛卯天・八月六日」と没年を刻んでいます。
新吉原の遊女屋三浦屋に、薄雲太夫という遊女がいました。
彼女は大の猫好きで、特に可愛がっていた三毛猫とは常に行動をともにしていたため、「薄雲は猫に魅入られた」という噂まで囁かれるようになります。
そんなある日、厠(かわや=便所)に入ろうとした薄雲の裾に三毛猫がうるさく付きまとって離れません。
見かねた楼主が短刀を抜いて猫の首をはねると、首は宙を飛び、厠の下で薄雲を狙っていた大蛇の喉首に食いついたそうです。
命拾いした薄雲は愛猫の死を深く悲しみ、長崎から取り寄せた伽羅の銘木でこの猫の姿を刻みました。
後にこの猫を真似たものが浅草の歳の市で売り出されるようになり、これが今日の招き猫となったと伝わります。
(招き猫の由来については諸説あります)
6.荏原神社
北品川で1300年以上の歴史を持つ荏原神社。
境内では、見事なピンクの寒緋桜(かんひざくら)が咲き誇っていました。
明治元年、明治天皇は京都を発って10月12日、品川に到着され、内侍所を天王社に泰安し、本陣跡(現聖蹟公園)に一泊されました。
境内にはそれを記念して昭和13年建立の「明治天皇御東幸内侍所泰安所」の石碑があり、遷都ではなく「東幸」になってます。
京都ではいまだに、天皇は東京に「行幸」したままということになっているのでしょうか・・・(笑)
7.入船さんのオムライスとビーフシチュー
なんとこのお店、大正13(1924)年創業だそう、この地でもうすぐ100年です。
この辺りは昔、花街だったようで、その名残が感じられる佇まいです。
オムライスはふわとろではなく、昭和のオムライスです!
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