本日の江戸時代の痕跡を巡る街歩きは江戸城跡(皇居東御苑)です。
1.大手門
諸大名が威儀を正して登城した江戸城の正門。
慶長12(1607)年、藤堂高虎によって完成した後、元和6(1620)年の江戸城修築の際、伊達政宗によって、高麗門と渡櫓門(わたりやぐらもん)で構成された典型的な枡形門(ますがたもん)になりました。
現存する高麗門は、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、万治2(1659)年に再建されたものです。
江戸時代の渡櫓門は、昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和41年の東御苑開園に伴い、昭和40年から復元工事が行なわれました。
(藤堂高虎)
この江戸城改築の功で慶長13(1608)年には伊予今治藩12万石から津藩22万石に加増転封され、今治城は高虎の養子・藤堂高吉を城代として治めさせています。
家康は藤堂高虎の才能を評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用しています。
城攻めのうまさは逆に防御の堅固さにも通じる。
家康が命じた築城は伏見城・江戸城をはじめ、8か所、城の縄張は加藤清正と並び称されました。
家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えています。
2.鯱(しゃちほこ)
枡形内に渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。
刻印に「明暦三丁酉」(丁酉=ひのととり)とあり、明暦3(1657)年の明暦の大火で焼失した後、万治2(1659)年に大手門が再建されたときのものと推定できます。
昭和20年の空襲で門は焼け落ちましたが、鯱だけが現存しています。
3.江戸城の中に郵便ポスト?
皇居東御苑に入ってすぐ、郵便ポストが設置してあります。
その住所は「千代田区千代田1」、つまり、東京のど真ん中です。
ここで投函すると、どのような消印が押されるのだろう??
4.同心番所
江戸時代には、濠に架かる下乗橋と呼ばれる木橋があり、その手前に同心番所がありました。
大名達は、この門で駕籠を降り、同時に家臣の人数も絞られました。
残された家臣たちは、ここで主人の下城を待つことになるので、同心番所は、この残された家臣たちを見張っていました。
警備担当者である武士たちは大久保あたりに住む軽輩の遠距離通勤者だったようです
現在は大手三ノ門の枡形内に移築されています。
5.百人番所
同心番所を過ぎると、中之門の石垣跡があり、その前に百人番所があります。
江戸城最大の検問所であり、50mほどの番所には伊賀・甲賀・根来(ねごろ)・二十五騎などの実戦に長けた4組の武士たちが100人ずつ昼夜交代で詰めて警備を行ないました。
6.大番所
大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。
大番所の前の中之門から本丸になるので、厳重な江戸城の警備の中でも特に重要な場所でした。
7.中之門跡
石垣は寛永15(1638)年にその原形が普請され、元禄16(1703)年に起きた地震で被害を受けましたが、翌年に鳥取藩3代藩主・池田吉明によって修復されました。
大きな石を隙間なく積み上げているのは威圧感演出のためでしょうか?
江戸時代は石垣の上に壮麗な渡櫓門がありました。
8.中雀門(ちゅうじゃくもん)跡
石垣の黒ずみは江戸後期の火事の痕跡。
大名たちが本丸御殿の玄関に到着するまでには、大手門、大手三ノ門、中之門、それにこの中雀門の4つの門を通る必要がありました。
逆にいえば、ここが本丸・表御殿の玄関門となります。
大手三ノ門、中之門を駕籠に乗ったまま通過を許された徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)も、この門では駕籠を下りなければなりませんでした。
9.富士見櫓
明暦の大火で江戸城天守閣が消失した後、その代わりとなった櫓。
どこから見ても真正面に見えることから、「八方正面の櫓」と呼ばれました。
歴代の将軍は両国の花火や品川の海をここから眺めたようです。
幕末、上野戦争の時、ここに陣取って指揮を執っていた大村益次郎は、本郷台に据え付けたアームストロング砲2門が不忍池を越えて上野の山に硝煙を上げるのを見て勝利を確信したと伝わります。
10.松の大廊下跡
江戸城内にあった大廊下の一つ、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下でした。
廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから、この名前がつけられたといわれています。
元禄14(1701)年、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への刃傷事件があったところです。
11.天守台
この天守台は、明暦の大火(1657年)によって寛永度天守が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。
つまり1606年(慶長11年)に黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台になります。
しかし天守そのものの再建は、当時の将軍・徳川家綱の後見役(徳川家光の異母弟)会津藩主・保科正之が「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)と、被災した人たちの救済と江戸の街の復興が先と主張したため、とりやめられました。
12.汐見坂
江戸時代の向こうに令和が・・・このコントラストがたまりません。。
汐見坂とは江戸城の本丸と二の丸をつなぐ坂道。
江戸城築城当時、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名前の由来です。
その頃、坂の上には、汐見坂門がありました。
また坂の横には白鳥濠があって、堅い防御を備えていたのがよくわかります。
13.坂下門
西の丸の北側入口にあたり、高麗門と渡櫓門からなる枡形形式の門でした。(手前にある橋は坂下門橋)
西の丸の坂下にあったので、この名がついたといわれています。
文久2(1862)年1月に老中・安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場となった場所でもあります。
明治に入り、西の丸に皇居が移ると、その重要な入口の一つとして使用され、明治18(1885)年に高麗門が撤去され、明治20(1887)年に渡櫓門のみが角度を90度変えて建て直されました。
現在も宮内庁の出入口(通用門)として利用されていますので、警備が厳重です。
14.二重橋
皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋があります。
奥の鉄橋は、慶長19(1614)年架けられた江戸城の西丸下乗橋があった位置にあります。
下乗橋(別名:月見橋)は、青銅製の擬宝珠の欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋脚を立て橋桁を支える構造にするのが困難だったため、橋桁を上下2重にして強度を上げたもの。
そのため、この橋が「二重橋」と呼ばれました。
その後、明治21(1888)年、鉄橋に改修され、さらに昭和39(1964)年、現在の鉄橋(二代目)になり、二重構造ではなくなりました。
手前の石橋は、寛永元(1624)年に架けられた木造の西の丸大手橋があった位置にあります。
その後、この大手橋は明治20(1887)年に、石造アーチ橋に改修されます。
二連アーチ構造であることから俗称で眼鏡橋とも呼ばれ、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いようです。
そもそも二重橋という名称は正式なものではなく、一般に用いられてきた通称ですが、現在、宮内庁や環境省等においては「二重橋」は正門鉄橋のことを指すとしながらも、「2つの橋の総称としても用いられる」と説明をしています。
「二重橋」と言う呼び名にも深いわけがあったのですね。
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