《ぶらっと「芝~三田~高輪」あたりを江戸時代に起こった事件の痕跡を探しながら歩いてみました!》
1.東禅寺
慶長15(1610)年の創建。
安政6(1859)年、日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在。
安政7年1月7日(1860年1月29日)、公使オールコック付きの通訳小林伝吉が門前で2人の侍に殺害されました。
文久元(1861)年、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。
オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。
文久2(1862)年には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺された(第二次東禅寺事件)。
7年に及ぶ英国公使宿館により東禅寺の檀家である諸大名の離檀を招き、経済的な支援もなくなり、境内は荒涼の一途をたどりました。
当時はここから江戸湾が見られたのですね。
2.田町駅構内「西郷南洲・勝海舟会見の図」
田町駅のエスカレーター付近で見ることができます。
原画・監修:ルイ・フランセン。
左が西郷隆盛、右が勝海舟、右の上方に咸臨丸が見られます。
3.水野監物邸跡
水野左近(監物)は出羽山形藩、赤穂浪士に対する幕府の沙汰を待つために、お預けになった藩邸の一つ。
この時の水野家は岡崎藩で、熊本藩細川家と同じように、浪士の扱いが丁寧だったと伝わります。
「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えています。
4.東京タワー
久しぶりに東京タワーを見ました!
昭和世代はやはりスカイツリーより、東京タワーに哀愁を感じます(笑)
5.元和キリシタン遺跡
江戸時代初め、キリスト教は全国的に布教されていましたが、幕府は天下統一に差し障りがあると考え、慶長17(1612)年に禁教令を出しました。
これにより、信徒の逮捕が行われ、長崎や京都で信仰を捨てなかった信徒の処刑が行われましたが、逮捕を逃れた信徒は、隠れて信仰を続けました。
江戸でも三代将軍徳川家光が元和9(1623)年10月31日キリスト教信者50人を処刑しました(徳川実紀より)。
宣教師を含む信者50名は小伝馬町の牢から 江戸市中を引き回され、東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で、火刑に処せられました。
処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。
中でも、下総(千葉)六万石の臼井城々主の長男、原主水がキリシタンの 中心的人物だったと記録されています。
原主水は駿河城で家康に 仕えていましたが、キリシタンと判り、手足の腱を切られて追放され、 江戸のハンセン病患者のための施療院に潜んでいました。
それでも外国人宣教師と協力し活動を続けましたが、 密告により捕えられ、炎の中で処刑されました。
その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々も巻き込んで、この地で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。
後に、処刑場だったことから空地となっていたこの場所に、慰霊のために智福寺が建てられました。
6.高輪教会「江戸の大殉教」
聖堂前庭には「江戸の殉教者の顕彰碑」が建てられています。
また、地下の資料室には江戸大殉教(ジョアン原主水や大勢のキリシタンが火刑に処せられている)を描いた絵画の他、当時のキリシタンが所持していたものや、その歴史が展示されています。
7.済海寺「最初のフランス公使館跡」
浄土宗の寺院。
安政6(1859)年にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって明治7(1874)年まで続きました。
ここは更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」があった場所と伝わります。
8.亀塚公園付近
江戸時代は上野沼田藩 土岐伊勢守の下屋敷で、明治維新後は皇族 華頂宮家(かちょうのみやけ)が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡からこちらに移ってこられました。
大正13年、同宮家断絶後、一時期、内大臣邸となりましたが、昭和8年、建物は壊され、昭和20年には空襲により破壊されました。
昭和7(1932)年5月15日、海軍の青年将校が起こした反乱事件「5.15事件」が起こりましたが、当時、内大臣であった牧野伸顕がここに住んでおり、反乱軍の襲撃を受けました。
古賀清志海軍中尉以下5人は内大臣官邸に、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させましたが、牧野伸顕内大臣は無事でした。
当時の犬養首相は総理官邸で襲撃を受け、亡くなりました。
9.大石良雄外十六人忠烈の跡
かつては肥後熊本藩江戸下屋敷があった場所。
赤穂事件で大石内蔵助ら17名が預けられました。
当時の藩主 五代綱利は老中稲葉丹後守から御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守(ほうきのかみ)の屋敷に875人の藩士と駕籠を送り引き渡しを受けました。
これは大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためと言われています。
細川家では威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石内蔵助ほか16人が切腹しました。
その場所が現在でも囲まれて残されています。
10.泉岳寺「大石内蔵良雄銅像」
曹洞宗の寺院。
慶長17(1612)年に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して、徳川家康が外桜田(現警視庁近く)に創立。
寛永18(1641)年の大火によって焼失し、現在の高輪に移転、しかし、ままならない復興状況を見た将軍家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)・毛利の五大名に命じて、出来上がりました。
この時から浅野家とつながりがありました。
大石内蔵助良雄銅像は浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門により鋳造されたもので、その所有が転々としましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。
内蔵助は元禄羽織を身につけ、連判状を手にして江戸の方向を見ています。
11.泉岳寺「血染の梅・血染の石」
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。
12.泉岳寺「首洗い井戸」
赤穂浪士が本懐成就後、本所からここ泉岳寺に到着し、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したことから「首洗い井戸」と呼ばれています。
13.泉岳寺「浅野長矩公之墓」
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城松之大廊下での刃傷事件が起こると、徳川綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じます。
切腹後は菩提寺であるここ泉岳寺に葬られました。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士は本所吉良邸で吉良上野介を討ち、本懐成就した後、永代橋を渡り、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいました。
浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を供え、焼香。
その後、吉良上野介の首級は泉岳寺の僧により吉良家に届けられました。
14.泉岳寺「大石内蔵助良雄之墓」
赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれますが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔があります。
48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔です。
なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっています。
15.高輪ゲートウェイ駅
当駅には京浜東北線と山手線のみが停車する予定。
2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催にあわせて暫定開業させる計画。
新駅設置は、山手線では1971年開業の西日暮里駅以来、京浜東北線では2000年開業のさいたま新都心駅以来となります。
2024年に本格開業のようです。
駅舎のデザインは新国立競技場で実績のある隈研吾氏によるもの。
今までの山手線の駅とは全く違うデザインなので、完成が楽しみです。
16.ランチは秋田のきりたんぽ鍋と稲庭うどん
今日のランチは、あきた美彩館に寄り、きりたんぼ鍋と稲庭うどんのセット。
きりたんぽ鍋を外で食べるのは初めてかもしれない( ^ω^)・・・。
稲庭うどんののどごし、いつ食べてもいいなぁ。
四国の讃岐うどんとは別物です・・
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