ついに禁断の園、清泉女子大学内にある「旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館」を見学することができました。
実は昨年、平日に当大学を訪れ、旧島津公爵邸を拝見したいと正門前に守衛さんにお願いしたのですが、NGとのことで、「来年の学園祭の頃にお越しください」と言われていたのを思い出して、訪問したのです。
1年越しで見ることができた洋館、素晴らしいです!!
こちらの学生はこの建物を何と教室として使用できるのです、羨ましいです・・
2.玄関入ったところの上に、島津家の家紋「丸に十文字」がデザインされたステンドグラスが・・・
3.1階のパブリックスペースから2階へ上がる階段と手すり
階段途中にあるステンドグラスと手すり。
デザイン、凝ってますね。
4.暖炉も風格があります!
5.1階と2階で異なるデザインのベランダ
本館の建築はルネサンス様式ですが、特にベランダの柱頭飾りは1階が「トスカーナ様式」、2階が「イオニア様式」で古典様式の規範に従っているのだそう。
6.清泉女子大学のフウ
フウは「楓」と書くマンサク科の落葉の高木。
本樹は享保の頃(1716~35)年に日本に初めて渡来した台湾フウの種類で、幹の周りが約3m、高さが約20m、樹齢は推定200年だそうです。
都内でも大変貴重な大樹です。
7.この地の歴史
この洋館が建つ高台は袖ヶ崎と呼ばれ、かつては海を隔てて房総まで眺めることができたそうです。
元文2(1737)年、仙台藩伊達家が鯖江藩間部家から取得し、下屋敷として使用していました。
明治6(1873)年頃、鹿児島島津家の所有となり、その後、東京本部が浜町から袖ヶ崎に移転され、明治12年、和館が建設されました。
老朽化により、洋館の新築が計画され、大正6(1907)年、工部大学校建築科教授であった英国人ジョサイア・コンドルの設計で落成しました。
その年、大正天皇の行幸もあったそうです。
館内の設備や調度は洋画家黒田清輝により整えられるなど、当時としては最高の洋館が出来上がりました。
昭和初期、金融恐慌の影響で島津家も大変な状況となり、当初2万8千坪あった敷地を昭和4(1929)年には8千坪を残し、周辺を売却。
その後、第二次世界大戦がひどくなり大邸宅の維持も困難となり、袖ヶ崎邸も日本銀行に売却しました。
戦時中、戦災を免れた邸宅は戦後、GHQ管理となり駐留軍の将校宿舎として昭和29(1954)年まで使用されました。
接収解除後、昭和36(1961)年、清泉女子大学が日本銀行から土地と建物を購入し、昭和37年4月に横須賀から大学を移転して、今日に至っています。
私はジョサイア・コンドルが建てた「旧岩崎邸庭園(台東区)」も見ましたが、何となく雰囲気が似ている感じがしました。
しかし、こちらの学生はこんな建物を自由に使うことができて、本当に羨ましいです!
8.池田山公園
清泉女子大学から少し歩いて、池田山公園に来ました。
江戸時代、このあたりは岡山藩主・池田家の下屋敷の奥庭があった場所で、この付近は「池田山」と呼ばれました。
廃藩置県後以降も池田家の屋敷として使われ、戦後、しばらく私人の邸宅がありましたが、品川区が庭園を保存すべく、土地を購入し、公園として整備し、1985年に開園しました。今でも回遊式庭園が見られます。
この周辺も宅地化され、いまや都内でも有数の高級住宅地となっています。
9.ねむの木の庭
この地は上皇后美智子さまの生家として知られる正田家の邸宅があった場所。
平成13(2001)年、相続税の一部として物納されましたが、その保存を求める要望が数多くあり、検討されたようですが、結局、2002年に解体されました。
もったいないですね。。今、残っていれば・・・
その後、品川区が取得して平成16(2004)年に「ねむの木の庭」として開園しました。
その名前は皇后が高校時代、作った詩「ねむの木の子守歌」に由来するそうです。
思ったほど広くはありませんが、様々な樹木や草花で囲まれて癒される空間です。
高級住宅地から徒歩10分ほどで「五反田」の駅前に出ますが、飲み屋や大人の店が集まるごちゃごちゃした街となり、その雰囲気はゴロっと変わります。
次回は『俗』を探索してみたいと思います(笑)。
そう「五反田」は『聖』と『俗』が混在する不思議な街です。
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