《ぶらっと「乃木坂~赤坂~六本木」あたりを明治から昭和に起こった事件の痕跡を探索しながらゆっくりと歩きました!》
1.高橋是清翁記念公園
明治時代後期、日本金融界の重鎮で、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家、高橋是清(1854~1936)の邸宅跡。
赤坂御所と向かい合う場所にあります。
邸宅は移築され、現在は都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」で公開されており、私も行ったことがあります。
ガイドの方に「ここが2.26事件で是清公が襲われた部屋です」と案内されたのを覚えています。
「2.26事件」
昭和6(1931)年の満州事変でさらに軍の独走は強まり、内部では皇道派、統制派の対立による緊張が高まっていた。
ただ、いずれも軍が日本を動かして体制を整え、戦争に突入していくという考えに変わりはなかった。
主流派として要職を押さえていた統制派の首領ともいえる永田鉄山軍務局長が1935年、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に白昼、陸軍省内で斬殺される事件が起きる。
相沢は捕らえられ、また、皇道派青年将校が多く配属されていた第一師団が満州に出征することになる。
相沢中佐を救い、昭和維新を断行するのはこの機会しかないと反乱計画を実行に移すことを決めた。
参加した部隊は「歩兵第三連隊900人強」「歩兵第一連隊約450人」「近衛歩兵第三連隊約60人」などで1500人強。
決起将校らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。
天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。(渋谷にあるその現場跡に碑が残っています)
これが2.26事件の概要です。
この事件に参加した「歩兵第三連隊」「歩兵第一連隊」「近衛歩兵第三連隊」の痕跡、および明治から昭和に至る歴史の舞台となった場所を散策しました。
2.乃木神社
「 乃木坂の名前の由来」
乃木坂の名は大正元(1912)年9月、大日本帝国陸軍の重鎮で、学習院院長であった乃木希典大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来します。
明治時代に活躍した軍人で、明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀った神社。
(摂社正松神社)
御祭神は、玉木文之進正韞命(たまきぶんのしんまさかぬのみこと),吉田矩方松陰命(よしだのりかたしょういんのみこと)の2柱。
玉木文之進は 幕末維新に多くの偉人傑人を輩出した長洲萩の学者で、松下村塾の開祖。
吉田松陰は、玉木の甥で、その村塾を受け継いで、その後の明治維新を成し遂げた幾多の國士を養成しました。
乃木神社戦災復興竣成の際、萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け境内に鎮際した縁の神社。
(末社 赤坂王子稲荷神社)
乃木希典夫妻が篤く王子稲荷を信仰していたので、乃木神社戦災復興竣成の時、王子稲荷神社を勧請しました。
3.旧乃木邸
日清・日露戦争に従事した陸軍大将乃木希典の邸宅で乃木神社に隣接しています。
現存する家屋は、乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治35(1902)年に新築されたもの。
明治期の将官の邸宅は豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。
11月の文化財ウィークには、その内部が公開されています。
(殉死の室)
明治天皇崩御の後に、乃木夫妻が殉死された部屋。
乃木将軍の辞世[うつし世を 神さりましし 大君のみあと志たひて 我はゆくなり][神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる]
妻静子の辞世[出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき]
(乃木大将と辻占売少年)
明治24年の金沢出張の際、一家の生計を支えるために辻占いを売りをしていた8歳の少年の姿に感銘を受けた乃木が、少年を激励し金二円を手渡したというエピソードを像にしたもの。
今越少年はその後、努力し金箔業で成功したそうです。
(愛馬の由来)
馬小屋は母屋が改築される以前の、明治22(1889)年に建てられました。
煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建てで、煉瓦は英国から取り寄せるなど、母屋より立派であったことから、「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。
4.伝統工芸 青山スクエア
店内は撮影禁止なので、作品を紹介することはできませんが、全国の伝統工芸品に出会えます。
5.銀杏ヶ丘(近衛歩兵第三聯隊跡)
ここは江戸時代、広島藩浅野家の屋敷跡を引き継いだ近衛歩兵第三聯隊跡。
現在の赤坂パークビル、TBS、ACTシアター、赤坂Bizタワーまで含む広大なものでした。
6.勝海舟・坂本龍馬の師弟像(勝海舟邸跡)
勝海舟が明治5年から明治32年に亡くなるまで住んだ家で、柴田家から購入した屋敷。
ここに住んでいる間に、同志社大を設立した新島 襄(山本八重の夫)や、日本の体育の父と呼ばれる嘉納治五郎と交流しました。
また、亡くなる前年の明治31年には、徳川慶喜が、大政奉還以来、初めて江戸城で明治天皇に拝謁し、このことで奔走した勝海舟をねぎらうために、この住居を訪れています。
こちらには勝邸由来の出土物も展示されています。
また、この二人の像の横には「建立寄附者」の名前が記されています。
中には私もよく知っている方の名前もあります。
7.勝海舟邸跡
安政6(1859)年から明治元(1868)年まで、江戸城無血開城に奔走した後、徳川慶喜に従って静岡に移るまで住んだ家です。
ここに住んでいる間に、勝海舟は咸臨丸で渡米しています。
また、坂本龍馬がこちらを訪ねて来て門弟にしています。
なので、本当は、こちらに「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」があった方がよかったのですが・・
また、意外なところでは、新選組に入った甥(佐久間象山遺児の格次郎)のことで新選組と手紙をやり取りしたり、土方歳三が近藤勇の助命嘆願に来訪したのもこちらです。
明治元年5月、一部の新政府軍兵士がこのここに乱入しますが、勝は留守。
この時、勝海舟の妹で佐久間象山の未亡人の瑞枝が、一歩も引かずに応対し、兵士を引き上げさせました。
さすが、勝さんの妹、肝っ玉が据わっています。
8.「歩一の跡」の碑(東京ミッドタウン)
ここ東京ミッドタウンは、江戸時代、毛利家屋敷があった場所で、明治になってからは陸軍駐屯地となり、2.26事件に関係した歩兵第一連隊駐屯地がありました。(現在、その碑が残っています)
戦後は米軍将校の宿舎、日本に返還された後は防衛庁となりました。
2000年、防衛庁がここ檜町から市ヶ谷に移転し、その跡地に檜町公園が出来て、2007年3月にに東京ミッドタウンがグランドオープンしました。
軍都だったこの地が、平成の時代に六本木の華やかなビルに生まれ変わりました。
9.歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館)
美術館エントランス前の小さな建物が、切り取り保存された歩兵第三連隊兵舎の一部。
この駐屯地は江戸時代、宇和島藩伊達家の屋敷でした。
2.26事件に関係した「歩兵第三連隊」「歩兵第一連隊」「近衛歩兵第三連隊」の痕跡を巡ってきましたが、港区に集中しており、かなり近くにあったことが分かります。
今の港区のイメージとは全く違った風景が、明治~昭和時代にはあったのですね。
10.おつな寿司「いなり寿司」
帰りに小腹も空いたので思い出した店を探しました。
六本木駅近くにある「おつな寿司」。
何年ぶりでしょうか、こちらに来たのは・・
前はこんなにきれいなビルではなかったような。
こちらのいなり寿司の味・ビジュアルは変わってないです。
あげが裏返しになったいなり寿司。
このいなり寿司はテレビ関係の人がよく買うらしい。。。
『裏(裏番組)を食う』というシャレがうけているようです。(笑)
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