1.11月17日(日)、ぶらっと江戸事件散歩「高輪」を実施しました!
今回のテーマは江戸時代にこのあたりで起こった事件現場の痕跡を探索。
なかでも赤穂浪士討ち入り後から切腹まで、江戸の大殉教が起こった元和キリシタン遺跡に関する場所などを巡りました。
2.水野監物邸跡
赤穂浪士が討ち入り後、幕府の沙汰を待つために、お預けになった藩邸の一つ。
元禄16年2月4日、預けられていた赤穂浪士9人はこの屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げました。
なお、この時の水野家は熊本藩細川家と同じように、浪士の扱いが丁寧だったと言われています。
「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えています。
3.元和キリシタン遺跡
江戸時代初め、キリスト教は全国的に布教されていましたが、幕府は天下統一に差し障りがあると考え、慶長17(1612)年に禁教令を発しました。
これにより、信徒の逮捕が行われ、長崎や京都で信仰を捨てなかった信徒の処刑が行われました。
江戸でも三代将軍徳川家光がキリシタン迫害政策を強化し、元和9(1623)年10月13日キリスト教信者50人を処刑しました(徳川実紀より)。
宣教師を含む信者50名は小伝馬町の牢から 江戸市中を引き回され、この地(東海道沿いの札の辻から 品川に至る小高い地)で、火刑に処せられました。
江戸の南の処刑場は鈴ヶ森が有名ですが、江戸初期は市街地が狭く、札の辻までが江戸の範囲で、その外れに処刑場がありました。
この地はその後、空地でしたが、慰霊のために智福寺が建てられました。
田町のビルの谷間に不思議な空間(遺跡)が残されているんですね。
4.済海寺(最初のフランス公使館跡)
浄土宗の寺院で、安政6(1859)年にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって明治3(1870)年まで続きました。
5.亀塚公園
江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷、明治維新後は皇族華頂宮家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡からここに移転。
大正13年、同家断絶後は一時、内大臣邸となりましたが、昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園も破壊されました。
外壁は華頂宮邸時代のものが、そのまま存在しており、通常の公園とは少し違った雰囲気を醸し出しています。
【5.15事件】
昭和7(1932)年5月15日、海軍の青年将校が起こした反乱事件。
当時、内大臣であった牧野伸顕が当地に住んでおり、反乱軍の襲撃を受けたものの無事でした。
6.三田台公園(伊皿子縄文遺跡)
縄文時代、高輪台地は南西から北東方向に伸びる台地で、伊皿子貝塚は高輪台地の東側にあり、東京湾に直接面していました。
港区内には縄文遺跡が多く存在しますが、その多くは古川沿いにあり、東京湾に直接面していた縄文遺跡は多くは無いようです。
このあたりが海に面していた痕跡(貝塚)がこんな場所にあったのですね。
7.細川邸跡(大石良雄外十六人忠烈の跡)
肥後熊本藩細川家江戸下屋敷があった場所。
水野家と同じく、赤穂浪士が討ち入り後、当家に預けられ、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、当屋敷において、大石内蔵助ほか16人が切腹しました。
水野家、細川家以外で赤穂浪士が討ち入り後、預けられたのは、伊予松山藩 松平隠岐守三田中屋敷(現 駐日イタリア大使館)、 長門長府藩 毛利甲斐守 麻布上屋敷(現 六本木ヒルズ内の毛利庭園)。
全て、現在の港区内にありました。
8.泉岳寺(血染の梅・石)(首洗い井戸)
曹洞宗の寺院、慶長17(1612)年に徳川家康が外桜田に創建。
寛永18(1641)年、寛永の大火で焼失、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪で再建されました。
【血染の梅・石】
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した時の血がこちらの梅と石にかかったそうですが、その後、泉岳寺に移されました。
【首洗い井戸】
赤穂浪士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。
9.泉岳寺
【浅野長矩公之墓】
勅使たちの登城前、将軍が謁見を行う手筈になっていた城中白書院近くの松の大廊下で、浅野内匠頭長矩が勅使接伴役の吉良上野介義央に斬りかかりました。
その場に居合わせた御留守居番梶川与惣兵衛頼照が長矩を抱き留めたため、長矩の小刀は義央の顔面と右肩に傷を負わせただけで、殺害には至りませんでした。
江戸城中での刃傷事件は、これを含めて4件ありましたが、相手を殺せなかったのは、この事件だけだそうです。
将軍綱吉の生母桂昌院の叙任のための朝廷との儀式の直前に、刃傷に及んだので、綱吉の怒りも相当なもので、即日切腹となりました。
【長矩公夫人之墓】
寛文9(1669)年、三次藩主 浅野長治の娘(三女)として三次に生まれる。
名は阿久利(あくり)。元禄14(1701)年、32歳の時、江戸城松の廊下で夫の刃傷事件が起こり、屋敷を移って髪を落とし、名を寿昌院、後に搖泉院の院号で長矩及び浪士達の菩提を弔い、遺族の処遇に尽力しました。
正徳4(1714)年、三次浅野家 下屋敷で死去、享年45歳。
10.泉岳寺(大石内蔵助良雄の墓)(大石主税の墓)
赤穂浪士は一般に「四十七士」と言われますが、実際には討入り前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔があります。
この内、この萱野三平と遺骸を遺族が引き取ったため、泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹を免れた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔です。
なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっています。
11.東禅寺
臨済宗妙心寺派の別格本山、現在の港区赤坂に慶長15(1610)年に創建。寛永13(1636)年、現在地に移転。
目の前に東京湾が広がることから「海上禅林」とも呼ばれ、 本堂の額に掲げられています。
安政6(1859)年には日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在。
安政7年1月7日(1860年1月29日)、公使オールコック付きの通訳 小林伝吉が門前で2人の侍に殺害されました。
文久元(1861)年、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。
オールコックは難を逃れるも、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。
翌文久2(1862)年には護衛役の信濃松本藩 藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺されました(第二次東禅寺事件)。
幕末、この寺にイギリス公使館が7年間の長きにわたって置かれ、いろいろな事件も起こったことから、檀家も離れていったりと大変だったようです。
12.高輪教会
元和9(1623)年10月13日、キリスト教信者50人を処刑した江戸の大殉教。
処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。
中でも原主水がキリシタンの 中心的人物でした。
主水は千葉氏の筆頭重臣であった原胤栄(たねよし)を祖父として、天正15(1587)年 下総国印旛郡臼井城主 (6万石) 原刑部少輔 胤義(ぎょうぶのしょうつぐよし) の嫡男として生まれ、幼名を吉丸といいました。
間もなく豊臣軍に囲まれた臼井城は落城し没落。
その後、主水は駿河城で家康に 仕えていましたが、キリシタンと判り、手足の腱を切られて追放され、 江戸のハンセン病患者のための施療院に潜んでいました。
しかし、主水は1623年には江戸で3度捕らえられ、江戸の入口、品川の札の辻付近で宣教師と信者50名と共に、火あぶりによって処刑されました。
その様子を表す絵画が本教会に掛けられています。
13.ランチ懇親会(ダノイ高輪)
ランチはシェフお任せのイタリアンコース。
最近、ぶらっと散歩では和食系が多かったので、久しぶりの洋食。
サーモンが入った前菜に始まり、パスタはアルデンテの茹で加減が最高の赤城牛のラグーソース。
そしてメインは、バルサミコソースの酸味が効いたイベリコ豚のグリル。
最後は、4種類のデザートを楽しみました。
ランチ中、皆さんは仕事以外の楽しみやネクストライフの思い、そして沢尻エリカの事件まで、本当に多岐にわたる話で盛り上がりました。
ぶらっと散歩ではクイズをしながら歩くのですが、今回の賞品は、昨日買い出しにいってきた「切腹最中」。
今日のテーマが赤穂浪士だったので、関連した和菓子にしました。
ちなみにこの「切腹最中」は、浅野内匠頭が切腹した田村屋敷跡に建つ新正堂で購入しました。
あんこの甘さが絶品で、中に求肥が入っていて、日本酒にも合います。
白い求肥は「腹の中は白い」を表しているのだそう(笑)
この「切腹最中」はサラリーマンがクレーム対応でお客様に行く際、謝る気持ちを表すため、よく持参されるそうです。
コメントをお書きください
川島延男 (月曜日, 18 11月 2019 21:34)
藤井さん ありがとうございました。ツアーに行かなかったら、一生赤穂浪士の墓には、行くことは絶対ありません。高輪も満喫できました。来月のハーフマラソン大会の下見もバッチリでした。ちょうど僕の担務が高輪なんです。
街発見くらぶ 藤井 (火曜日, 19 11月 2019 00:47)
川島さん、ぶらっと散歩にご参加いただきありがとうございました。港区にも「こんなところに、こんなものがあるの?」というちょっとした驚きの場所があって面白いですね。また、都内でそんな街発見を頑張っていく所存です。ハーフマラソン大会の成功を祈っています。