新型コロナウィルスの影響で、3ヶ月ほど休止していたぶらっと散歩を再開することにしました。
今回は上野から日比谷線で一駅の入谷駅からスタートし、山手線で乗降客が一番少ない鶯谷まで歩きました。
1.旧陸奥宗光邸
陸奥宗光邸と言えば、その一つが私の大好きな清澄庭園近くの隅田川沿いにもあって、そこには明治5(1872)年から同10(1877)年まで住んでいました。(現在、ここは看板が立っているだけ)
そして、陸奥は明治5年、新橋で芸者をやっていて、その美貌が有名だった亮子と結婚しました。
その後、陸奥は、明治11(1878)年に西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁固5年の刑を受け投獄されます。
明治16(1883)年1月に出獄したあと、同年9月に取得したのがこの邸宅です。
まだ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
明治17(1884)年4月から明治19(1886)年2月まで、陸奥はロンドンに留学します。
その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称された亮子と子供たちがこの家で暮しました。
そして陸奥は留学から帰国して、明治20(1887)年4月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては、都内で最も古いものの一つです。
陸奥家との関りを示すものとして、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
明治40(1907)年頃、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)としてここを買い取ります。
現在も、この家にはご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。
というわけで、この邸宅の中を見ることは残念ながら出来ません。。
2.眞源寺(入谷鬼子母神) (本当は、こちらの「鬼」の字には "ノ" がついていない)
万治2(1659)年、駿河国沼津の光長寺20世・日融が開いた法華宗の寺。
「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)。びっくり下谷の広徳寺。そうで有馬の水天宮」というのは江戸っ子の洒落。
恐れ入るということを洒落て、入谷の眞源寺に祀られる鬼子母神をかけたもの。
由来はある大名の奥女中の腫れ物が眞源寺の願掛けで完治したので、ご利益が話題となり「おそれ入谷の鬼子母神」となったらしい。
雑司ケ谷の鬼子母神、千葉・下総中山の鬼子母神(法華経寺)と並び「江戸三大鬼子母神」に数えられています。
また、下谷七福神の福禄寿を祀っています。
境内と門前で7月に開かれる『朝顔市』は、東京の夏の風物詩ですが、今年はコロナの影響で中止だそうです・・
3.法昌寺「たこ地蔵」
日照が開山となり、慶安元(1648)年、下谷御切手町付近に創建、元文2(1737)年当地に移転したといいます。
境内にある「たこ地蔵」は、喜劇俳優・由利徹、漫画家・赤塚不二夫、映画監督・山本晋也らを発起人として昭和60年に建立された地蔵尊。
プロボクサーで、日本フライ級チャンピオン、後に俳優、コメディアンとしても活躍したたこ八郎(本名:太古八郎)の菩提寺。
ノーガードで相手のパンチをもらい続け、相手が打ち疲れた瞬間に反撃するというスタイルは、『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈のモデルになったともいわれます。
しかし、昭和60年7月24日、酒を飲んで酔っ払ってるのに海で泳いでしまい、心臓マヒで急死。
たこ八郎の墓は故郷の宮城県仙台市にもありますが、東京で参詣できる場所をと、有志が建立したのが、この「たこ地蔵」。
よく見ると、この地蔵の右耳はたこ八郎が喧嘩でかじり取られたのと同様に欠けています。
4.小野照崎神社「富士塚」
仁寿2(852)年、小野篁(おの の たかむら)が御東下の際に住んだ上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在地に遷されました。
江戸後期には、 学問の神様である菅原道真も回向院より御配神として当社に遷され、境内にある末社を含めると、 15柱もの神様が祀られています。
重要有形民俗文化財に指定されている富士塚「下谷坂本富士」が富士山の開山に合わせて「お山開き」と称し、毎年6月30日、7月1日の2日間だけ登拝が許されますが、今年はコロナの影響で、規模を縮小したものになるそうです。
また、こちらは渥美清さんが願をかけた神社として知られ、芸人の間でもここを訪れると仕事をいただけると評判だそうです。
かつて渥美さんが売れない時代のこと。
友人から「何かを手に入れたかったら、何かを我慢しなければいけない」と言われ、渥美さんは“禁煙”だと思いつき、翌日この神社に願かけに行ったそうです。
「タバコを一生吸いませんので仕事をください」 と。
すると数日後、『男はつらいよ』の主演・寅さん役のオファーがきたと言われています。
ちなみに、寅さんがぶら下げているお守りは、この神社のものだそうです。
5.五十嵐提灯店
たまたま通りがかってお店の中に入ると店主と息子さんでしょうか、お二人で仕事をされていたので「ちょっとお話、いいですか?」と聞くと、いろいろと説明して下さり、途中、お茶までごちそうになってしまいました。
現在の店主は4代目だそうで、3代目や初代の吉原にまつわるエピソードなど面白くてあっという間にお昼に。
このあたり入谷と通称されていますが、江戸時代は坂本村と呼ばれていたそうです。
坂本の由来は上野の東叡山寛永寺を天海僧正が創建した時、西の比叡山に対し、天台宗の拠点として東叡山としたそうで、比叡山山麓の坂本(現大津市坂本)に対して東叡山の坂本というわけです。
今年はコロナの影響でお祭りの中止が相次ぎ、提灯の需要もさっぱりだとか。
こんなところでもコロナの影響を実感しました・・
6.根岸薬師寺「御隠殿跡」
御隠殿とは、輪王寺宮一品法親王(天台座主であり、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼ねた)の別邸のこと。
その創建年代ははっきりしませんが、幕府編纂の絵図「御府内沿革図書」には、宝暦3(1753)年7月にその記述が見られます。
敷地は約三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ここから眺める月は美しかったと言われています。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用しました。
また谷中7丁目と上野桜木2丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたそうです。
慶応4(1868)年5月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていません。
7.善性寺「不二大黒天像」
日蓮宗の寺院で、長亨元(1487)年の開創、日蓮聖人が佐渡からの帰路、難産だった妊婦を安産させたことから始まったお寺と言われています。
寛文4(1664)年、六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となりました。
宝永年間(1704-1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられました。
幕末、上野戦争では、彰義隊の屯所となりました。
安土桃山時代の作と伝わる「不二大黒天像」も多くの信仰を集めています。
8.羽二重団子
江戸の昔より、日暮しの里・呉竹の根岸の里といえば、音無川の清流があり、明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として憧れの土地柄でした。
羽二重団子の初代庄五郎は元々、植木職人でしたが、文政2(1819)年、このあたりを訪れる行楽客めあてに、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を提供しました。
現在の団子の形になったのは3代目庄五郎の時。
幕末の頃、作られた団子はそのきめ細やかさが羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。
羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが特長で、丸めて扁たく串に刺されており、昔ながらの生醤油の焼き団子と、こし餡の二種類があります。
他店の団子のような真ん丸じゃないので、ちょっと個性的な見映えです。
彰義隊士との関り
慶應4(1868)年、上野戦争で敗走した彰義隊士は、芋坂を駆け下り、当店に逃げ込んできて、刀、槍を縁の下に投げ入れ、百姓の野良着に変装して、日光奥羽方面へ落ち延びたものも多かったと聞きます。
その際に残された刀や槍が今でも店内のショーケースに展示されています。
また、このあたりの閑静で自然な景観は正岡子規、夏目漱石、泉鏡花、司馬遼太郎など文人にも愛されました。
まさに江戸の別荘地とも呼べるような街だったようで、彼ら文人だけでなく、日本橋あたりの大店の主人達も、ここに住まいや別荘を持ち、お妾さんを住まわせていたらしい。
正岡子規も晩年、この地で暮らしていましたが「妻より妾の多し門涼み」と詠んでいます。
コメントをお書きください