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ぶらっと浜離宮「徳川将軍家別邸 御浜御殿」

1.浜離宮恩賜庭園

 

寛永年間(1624~1644)まで、この地は徳川家一門の鷹狩場で一面、葭原が広がっていました。

 

三代将軍家光の三男で甲府を領した徳川綱重が承応3(1654)年、後に甲府浜屋敷と呼ばれる別邸建設に着手します。

その後、綱重の長男綱豊(家宣と改名)の六代将軍就任後、徳川将軍家の別邸となり「御浜御殿」と呼ばれました。 

 

維新後は浜離宮となり、明治2(1869)年に迎賓施設の延遼館を建設します。

 

その後、関東大震災・第二次世界大戦の空襲によって建築物はすべて焼失し、多数の樹木も損傷しました。

 

終戦直後、昭和20(1945)年11月に東京都に下賜され翌年開園しました。

 

かつて江戸には海水や河水を引き入れた庭園として、明治以降も清澄庭園、旧安田庭園、芝離宮などは外部と水を循環していました。

ところが埋め立ての進行や水位調整の面倒さなどから現在、海水を引き入れているのはこちら浜離宮のみです。

 

潮入の池の周囲に配された石にはフジツボが付着し、カニやフナムシを見ることが出来ます。

 

 


2.八代将軍徳川吉宗の時代の浜離宮で「象を飼育」

 

浜離宮の歴史の中で、吉宗の時代には下記のようなことを行っています。

1、吉宗はこの地を、実学の実験場とした

2、サトウキビや薬草を栽培

3、狼煙の実験や西洋騎馬術の訓練を実施

4、浜御殿の役人を大幅に削減

5、5代、6代将軍の側室の館を建築

6、象を飼育

 

上記の中で、私は特に6番目の「象を飼育」について興味が湧き、調べてみました。

 

享保13(1728)年6月7日、広南(いまのベトナム)から、中国の貿易商が長崎に、牡牝(オスメス)2頭の象をつれてきたそうです。

牡は7才、牝は5才でしたが、牝は上陸3ヶ月後の9月11日に死亡、その後、牡は長崎の十善寺で飼育され、翌年の5月に江戸将軍家に献上されることになりました。

 

一行は長崎を享保14(1729)年3月13日に長崎を出発、4月16日に大阪、4月26日に京都到着。

京都では中御門天皇の上覧があったそうです。

この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられたという話まであります。(諸説あり)

 

そして、5月25日に江戸、浜離宮に到着、そこで27日の将軍上覧まで休んでいました。

 

 『徳川実記』によれば、当日、吉宗は江戸城大広間から象を見たようで、この時、幕府御用絵師・狩野古信がその時の絵を描きました。

 

象はしばらく浜離宮で飼育されましたが、年間飼料代200両、食料の世話、番人を殺すなどの事故があったため、民間に払い下げられることになりました。

 

享保17(1732)年に幕府直営の象舎が中野に造られ、押立村の平右衛門、中野村の源助、柏木村の弥兵衛の三名が世話をし、象舎は見物人で賑わい饅頭も売れたと伝わります。

さらに彼らは象の糞が疱瘡の薬であると言って売り出して大もうけしたらしい。(糞ではなく涙だという説もあり)

商魂たくましいですね(笑)

 

そして、象は寛延(1748~51)年頃、死んだそうです。

可哀そうに異国で孤独に死んでしまった哀れな象でした。

 

皮は剥がされ、頭蓋骨と牙、鼻の皮が源助に与えられたそうです。

これがいま、中野宝仙寺に伝わる『馴象之枯骨』(じゅんぞうのここつ)です。

しかし、残念なことに第二次世界大戦の最中、一部を残し焼失してしまいました。

 

http://www.housen.org/info/property.html

 

 


3.浜離宮「内堀」

 

江戸時代、京都、大阪、長崎からの物資を運ぶ中継地点で、河岸(荷揚げ場)の姿を留めています。

 

 


4.浜離宮「三百年の松」

  

六代将軍 家宣が宝永6(1709)年の庭園改修で植えたと伝わる黒松。

園内では唯一、戦前からある樹木で、他のものは震災・戦災などで全て失われました。 

 


5.浜離宮「将軍お上がり場」

 

慶應4(1868)年、鳥羽伏見の戦争で敗れた十五代将軍徳川慶喜は、松平容保、定敬兄弟を連れて軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰り、このお上がり場から上陸し、すぐさま勝海舟を呼び寄せました。

 

赤坂から急ぎ浜御殿まで馬を飛ばした海舟は、お辞儀もせず慶喜の前に出て、何と全員に「アナタ方、何という事だ。これだから、私が言わないことじゃあない、もうこなってから、どうなさるおつもりなんだ」と罵倒したそうです。

 

周囲の人は「上様の前だから」と注意をしたそうですが、聞かぬふりをして相当罵った海舟でしたが、その時の様子を「己を斬ってでもしまうかと思ったら、誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくまで弱っているかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ」と後年、語っています。

 


6.浜離宮「横掘水門」

 

六代将軍家宣の時代にはこのあたりに堰(せき)があり、海水の出入りを調節したと考えられています。

 

現在も樋の口山と新樋ノ口山の二つの丘に挟まれた場所にあり、東京湾の水位の上下に応じてこの水門を開閉し、「潮入の池」に入る水量を調整していますが、昔の面影は無く、近代的な水門になっています。 

 

 


庚申堂鴨場「小覗」
庚申堂鴨場「小覗」
新銭座鴨場「小覗」
新銭座鴨場「小覗」
新銭座鴨場「引掘」
新銭座鴨場「引掘」

7.浜離宮「庚申堂鴨場 小覗(このぞき)」 「新銭座鴨場 小覗、引掘」

 

「鴨場」とは古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所。

 

鴨場は飛来した水鳥が休むための島を配置した「本溜り」と呼ぶ大きな池と何本かの引き込み水路「引掘」からなっています。

 

池には獲物の水鳥を引掘へ導き入れてくれるよう調教された囮のアヒルを放しておき、周囲は3mほどの高さの土手で囲み、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。

 

本溜りを見渡せる監視所の「大覗」から水鳥の集まり具合や風向きを確認し、猟を行う引掘を決めます。

そして、引掘の奥の見張りが隠れる「小覗」から板木をたたきながら、ひえやあわなどのエサを撒き、囮で引き寄せられた水鳥を引掘の小土手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。

 

浜離宮には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがありますが、その築造は、前者が安永7(1778)年、後者が寛政3(1791)年という古いもの。

 

庚申堂鴨場の名称はこの鴨場の北東側に庚申堂があったこと、新銭座鴨場の名称はこの鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことにそれぞれ由来しています。

 

 


8.浜離宮「潮入の池」

 

江戸時代から続く庭園では、都内唯一の海水の池で、ボラをはじめ、セイゴ、ハゼ、ウナギなどの海水魚が棲んでいます。

 

池の周囲に配置された岩や石にはベンケイガニなどがすみ、フジツボなどがついています。

また、冬になると、キンクロハジロなどの渡り鳥もやってきます。 

 

江戸時代から続く池と後ろに見える高層ビルとのコントラストが見事です。

  


9.浜離宮「復元された燕の御茶屋」

 

十一代将軍家斉の時代、天保5(1834)年までに建てられたものは、外壁は漆喰壁、内壁は色壁(大阪土)、屋根はサワラ材こけら葺きの数寄屋風書院造でした。

第二次世界大戦の空襲で焼失し、平成27年、東京都により復元されました。

 

室内には将軍が座る上段が構えられ、将軍自身が調度(生花・座敷飾)の観賞や菓子・すしなどの食事、和歌を詠むといった接客の場として利用されていたようです。

 

「燕」の由来は燕型の釘隠金具が使われていたことや燕子花(かきつばた)が由来とも言われていますが詳細は不明です。

 

  


10.浜離宮「復元された鷹の御茶屋」

 

寛政7(1795)年頃に建設され、将軍が鷹狩りを行う際の、待合いや休憩所として利用されていたと考えられています。

戦災で焼失しましたが、平成30(2018)年に復元されました。

 

他の御茶屋とは異なり、茅葺(かやぶき)屋根や、内部の土間叩きが特徴の、農家風の佇まいの建物です。

また、建物には、鷹狩りの際に鷹を飼育するための鷹部屋も付属しています。 

  

 


11.浜離宮「中島の御茶屋」

 

宝永4(1707)年、六代将軍徳川家宣の時代に建てられ、室内からの眺めが素晴らしく最も立派な御茶屋でした。

別名「狎鴎亭(こうおうてい)」とも呼ばれましたが、享保9(1724)年の火災で焼失し、その後、天明8(1788)年、十一代将軍家斉の時代に再建されました。

 

明治維新後、皇室の離宮となり、しばしば国賓なども迎えましたが、第二次世界大戦の空襲により焼失。

その後、昭和58(1983)年再建されました。

 

現在ではお抹茶と和菓子をいただくことが出来、潮入の池を眺めながらゆったり気分を味わえます。

清澄庭園と違い、食事やお酒はNGです・・残念( ^ω^)・・・