長浜は戦国時代、羽柴秀吉が長浜城の城下町として、整備して以来、湖北地方の中心地として栄えました。
戦国時代といえば、「鉄砲」ということで、先日、NHKでも放送された鉄砲鍛冶の町 国友村の由来を知りたくて訪れました。
期待に胸膨らませて、いざ出陣!
2.長浜駅前「秀吉・三成出会いの像」
長浜生まれだった石田佐吉(後の三成)が観音寺で修業していたある日、長浜城主だった羽柴秀吉が立ち寄りました。
その時、秀吉が汗をかいている様子だったので佐吉は大きな茶碗になみなみとぬるいお茶を持ってきました。
秀吉がもう一杯と頼むと、今度は先ほどより少し熱いお茶を茶碗に半分ほど入れて持ってきました。
秀吉がさらにもう一杯所望すると、今度は小さな茶碗に熱いお茶を出しました。
秀吉はお茶の入れ方にこれほど気遣いが出来る佐吉を気に入り、召し抱えることにしました。
この話は「三献の茶」として語り継がれています。(諸説あり)
この像はこの話をモチーフにして、昭和56年の建立されたものです。
3.国友鉄砲ミュージアム
天文12(1543)年、種子島に中国船が嵐のため漂着し、そこに乗っていたポルトガル人から2挺の鉄砲(火縄銃)が伝えられました。
「国友鉄砲記」によると、その翌年天文13(1544)年、将軍足利義晴が管領 細川晴元を通じて国友村の鍛冶・善兵衛等に鉄砲製作を命じ、6か月後には六匁玉筒二挺を完成させたのが国友鉄砲の始まりと伝わります。(諸説あり)
特に、製造のポイントは、ねじの開発でした。
ねじを切る方法など創意工夫を重ね、大量の鉄砲の製造が可能になりました。
最盛期、国友には70軒の鍛冶屋と500人を超す職人がいたそうです。
4.国友鉄砲ミュージアム「大筒火縄銃」
火縄銃の玉は丸い鉛を使用しており、その玉の重さ(大きさ)により、細筒、中筒、大筒に区分されます。
細筒(足軽銃)は口径11mm前後、中筒(侍銃)は口径19mm前後、口径24mm以上を大筒といいます。
江戸後期には短銃や脇指鉄砲、連発銃等も作られました。
「太与助 勝正」は太与助家の江戸後期の鍛冶師で、細筒、中筒、大筒と数多くの火縄銃を製作しました。
江州(滋賀県)国友(町名)太与助(家名)勝正(制作者)です。
5.国友鉄砲鍛冶の全国への雄飛
国友鉄砲は戦国大名浅井氏の時代に起業したと考えられています。
その後、織田信長、長浜城主となった羽柴秀吉や佐和山城主となった石田三成から手厚く保護されました。
関ケ原の戦いにおいても、その2か月前から三成から従来通り鉄砲の生産を行うよう指示がありました。(国友助太夫家文書)
その後、徳川家康に接近し、大坂冬の陣に向けて家康方へ大量の鉄砲を納入しました。
これにより、国友は日本を代表する鉄砲生産地として不動の地位を築きました。
江戸時代になると、国友鉄砲鍛冶の高度な技術は全国の諸大名にも注目され、召し抱えられるものも出てきました。
彼らは各大名家の城下町に移住し、多くの鉄砲を製作しました。
6.国友一貫斎の発明「反射望遠鏡」
国友一貫斎は安永7(1778)年、近江国坂田郡国友村の鉄砲鍛冶の家に生まれました。
9歳となった天明6(1786)年、家名を継いで藤兵衛と名乗りました。
一貫斎の科学技術における業績は多岐にわたりますが、日本で初めて自作の望遠鏡を作って天体観測を行った人物として知られています。
一貫斎は彦根事件が起こった際、事情聴取のため江戸へ呼び出されます。
結局、この裁判は1年後に解決しますが、これをきっかけとして6年間江戸に滞在し、この間に経験したことが人生の転機となってその後の一貫斎の研究や発明に大きな影響を及ぼします。
江戸で外国製のグレゴリー式反射望遠鏡を見た一貫斎は自らの手で望遠鏡の製作に取り掛かり、およそ10年後に日本初の反射望遠鏡を完成させました。
一貫斎は自分で発明した反射望遠鏡で実際に月や太陽、金星、木星、土星などを観測し見事な図面を残しました。
また、天保6(1835)年から翌年にかけて、太陽黒点の観測を続け、詳細な観察記録も残しました。
一貫斎はその他、空気銃「気砲」、ランプのような照明器具「玉燈」、外出時に携帯可能な「懐中筆」など多くの発明をしました。
しかし、一貫斎の独創的なこれらの業績はこの地域で受け継がれることはありませんでした。
継承できる人材がいなかったこと、また、これらを支援する大名などパトロンも不在だったためです。
非常に残念なその後ですが、一貫斎は日本の科学技術の飛躍的な成果を上げた人物として、もっと有名になってもおかしくないと思います。
7.北国街道「武者隠れ道」
北国街道の中で「武者隠れ道」と呼ばれた通りです。
長さ六十五間九尺(約120m)にわたって、屋敷と屋敷の境界が不規則に出たり入ったりして、戦の時に武士が身を隠したと伝わります。
8.北国街道 安藤家
安藤家は室町時代から長浜に移り住んだ旧家で、賤ケ岳合戦(1583年)では羽柴秀吉に協力したそうです。
秀吉は町衆の中から長浜の自治を委ねる「十人衆」を選び、安藤家はその十人衆として町衆文化の一翼を担い、江戸時代には十人衆の中から選ばれる三年寄の一家として長浜町の発展に力を尽くしました。
明治以降、安藤家は近江商人との姻戚関係から自らも商人となり、呉服問屋として事業を展開し、東北地方を商圏に産物の交流につとめ、その後は福島県を拠点とする百貨店・中合を開業しました。
現在の建物は明治38年から大正4年にかけて建てられたもので、長浜を代表する和風建築です。
また、当家は北大路魯山人が手掛けた装飾美でも知られており、30歳の頃、長浜に逗留し、多くの作品を残しました。
安藤家の離れは魯山人により「小蘭亭」と名付けられ、篆刻や天井絵、襖、障子など魯山人の作品が今でも残っているそうです。
(今回は残念ながら見学できませんでした)
「古翠園」と名付けられた庭園は、庭師・布施宇吉による池泉回遊式庭園です。
どの部屋からも眺められるように設計されており、植栽と巨石の絶妙な組み合わせが見事です。
9.長浜城歴史博物館
姉川合戦と小谷城攻めで戦功のあった羽柴秀吉は、浅井氏の領国の大部分を与えられ、小谷城に入り、天正2(1574)年には今浜(後の長浜)に築城を開始しました。(秀吉の築城に関しては当時の絵図や古文書がほとんどないので不明な部分が多い)
長浜城は天正5(1577)年頃に完成したと考えられ、秀吉は地名を「長浜」と改めて天正10(1582)年まで在城しました。
本能寺の変で織田信長が自害した後、天正10(1582)年の清須会議で、長浜城は柴田勝家に譲られることになり、勝家の甥・勝豊が入城しました。
しかし、その後、秀吉が勝豊から取り返し、勝家との賤ケ岳合戦では軍事拠点として活用しました。
天正13(1585)年から5年間は山内一豊が城主となりますが、その移封後は荒廃し、湖北真宗門徒惣会所が設けられたとも伝わります。
この時期、湖北は佐和山城主石田三成の支配下となっていました。
江戸時代になり、慶長11(1606)年には家康の異母弟 内藤信成が城主となり、大改修を行っています。
慶長17(1612)年、その子信正が城主となりますが、元和元(1615)年、摂津高槻城への移封により長浜城は湖北支配の役割を終え、彦根城に譲りその使命を終えました。
現在の長浜城は昭和58(1983)年に初期天守の様式で「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の声によって天正期の城郭を想定し建てられました。
10.慶雲館
明治20(1887)年、明治天皇行在所として実業家の浅見又蔵により建設されました。
館名は当時の総理大臣 伊藤博文の命名と伝わります。
本庭の池泉回遊式庭園は名匠7代目小川治兵衛の代表作の一つと言われています。
明治19(1886)年秋、明治天皇皇后両陛下が京都行幸の帰路に大津から船を利用して長浜に上陸される、との報が入り、浅見又蔵は私財を投じ陛下の行在所の建築に着手します。
行幸は翌年2月21日、3ヶ月しかない中、突貫工事で行幸の朝にやっと完成するほどの慌ただしさだったそうです。
建設費は当時としては破格の一万円、陛下をお迎えする「玉座の間」が設けられました。
二階からは琵琶湖と伊吹山が一望でき当時の新聞に「美麗壮観同地に冠たるものなり」と出たそうです。
その後は長浜の迎賓館として利用されましたが、昭和10(1935)年の国史跡指定に伴い、翌年長浜市に寄贈されました。
[最後に、旅のつぶやき( ^ω^)・・・]
本当は竹生島も訪れる予定でしたが、途中トラブルが発生し、訪問が叶いませんでした。
国友鉄砲ミュージアムを出てタクシーで長浜港に向かう途中、帰りの乗車券がないことに気づき、ミュージアムに取りに戻ったため、竹生島クルーズの出航時間に間に合わなかったのです。
本当に残念でした・・・
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