中野区はぶらっと散歩でまだ訪れていない区の一つ。
今回は西武新宿線 新井薬師寺前駅から新井薬師周辺を通り、JR中野駅までを巡りました。
1.新井薬師
安土桃山時代、天正年間(1573~92)、もと北条家の侍だった僧の行春が開いたと伝わります。
5代目住職玄鏡の頃、夢の中に如来様が現れ、「修行に務め、信心も厚いので15歳以下の子供ならどんな病気も治す薬の作り方を教えよう」と告げたという。
玄鏡は教えに従って薬を作り、子供に与えると何と病気は全快、この薬は「夢想丸」と名付けられ、評判となり、15歳以上でも、15歳のつもりで飲めば効能があるとされ、新井薬師は「子育て薬師」と言われるようになりました。
(徳川秀忠との関わり)
2代将軍秀忠の娘和子(東福門院)が眼病を患った時、新井薬師で祈願をしてもらったところ、治癒したので、将軍家から御供料として田畑を賜ったという。
それから「治眼薬師」とも呼ばれるようになりました。
江戸時代末期には門前町が形成され、料理屋・芸妓屋などが加わり発展、旧野方町の代表的な商店街となり、関東大震災後の大正14(1925)年8月には、料理屋、置屋、待合の新井三業組合が組織され、上高田の待合も加えて、花街としてに賑わいました。
(聖徳太子像)
この聖徳太子像は16歳の頃の姿を表しており、東京都左官職組合連合会中野支部が技能向上を願って設置したそうです。
2.光徳院
創建年代は不明、亮珍和尚によって開山されました。
元々は現在の半蔵門付近にありましたが、江戸城拡張工事に伴い市ヶ谷田町、そして牛込柳町に移り、明治43(1910)年に現在地に移転しました。
五重塔は平成7(1995)年に、木造瓦葺きで建立されたもの。
3.東光寺
真言宗豊山派の寺院で、上高田村の人たちの菩提寺と言われています。
創建年代は不明ですが、昭和8(1933)年の本堂改築の際に、「元禄三年五月八日三世満盛建之」と書かれた棟札が発見されているので、江戸時代初期の創建と推測されます。
弘法大師のブロンズ像、「あらいやくしみち」と読める道標があります。
4.名家・鈴木家(「たきび」の歌発祥の地)
江戸時代、上高田の名主を務めた名家・鈴木家の竹垣は、童謡「たきび」で歌われ、欅屋敷と呼ばれました。
童謡「たきび」
「かきねの かきねの まがりかど~」で始まるこの詩の作者 巽聖歌(たつみせいか) (本名 野村七蔵)は岩手県出身で北原白秋に師事した詩人で、この詩が作られた昭和5,6年頃から約13年間、萬昌院功運寺の近く現在の上高田四丁目に住み、朝夕この辺りを散歩しながら「たきび」の詩情をわかせていたといわれます。
5.中野区役所(中野の犬屋敷跡)
この一帯は5代将軍綱吉の「生類憐みの令」で設けられた野犬保護施設、犬屋敷「中野御囲」の跡。
元禄8(1695)年、野犬を収容する犬御用屋敷が四谷と大久保に作られ、10月には中野村にも設置されました。
ここでは御鷹場役人だったものが御犬役人になって世話をし、中野御囲は最盛期には28万坪の敷地に8万数千頭を収容したらしい。
犬小屋、子犬養育所に日除け場、役人の住まいや付属施設を擁する御囲は現在の中野区役所を中心に高円寺の一部を含む広大な区域でした。
(生類憐みの令)
将軍綱吉は天和2(1682)年に世継ぎを亡くして以降、子宝に恵まれなかった。
母の桂昌院は崇拝する護持院の僧・隆光が「子供が出来ないのは前世で殺生した報いである。将軍は戌年生まれなので特に犬を保護しなければならない」と進言したのを受けて、綱吉に動物愛護を勧めたといわれる。
当時、まだ食用に供されていた犬は特に保護された。
かつては天下の悪法とされていましたが、現在では再考が進み、評価は変わりつつあるようです。
しかし、当時の人々にはかなり迷惑で、保護した野良犬が増えすぎて幕府はそれらを集めて収容する施設を作らざるを得なくなり、この犬屋敷が作られました。
綱吉の死後は犬屋敷が廃止され、8代将軍吉宗の時代に鷹場になりました。
これは3代将軍家光ゆかりの中野の鷹場を再興したものといわれています。
当時のこのあたりは小川が流れ、小高い台地もあったので吉宗は鷹狩の際、休憩所として利用していました。
享保20(1735)年、吉宗はこの地に眺望のいい足場を築き、その周りに紅白の桃を飢え、さらにその後、鷹を放して小鳥や小動物を捕まえるためのお鷹場を築き、その周りに松や紅桃を植え足したので絶景の地となり「桃園」と名付けられました。
6,東京警察病院(陸軍中野学校跡)
日清戦争直後の明治30(1897)年に陸軍鉄道大隊が創設されて演習場になり、その後、鉄道隊、電信隊、気球隊、飛行隊と変遷し有名なスパイ養成機関 陸軍中野学校もここにありました。
昭和13(1938)年、防諜研究所として新設され、同年7月より九段下の仮校舎で第一期生19名の養成が開始され、翌14年4月に中野の陸軍電信隊基地に用地を確保して移り、5月に陸軍後方勤務要員養成所に改編、同15年8月「陸軍中野学校令」が制定され、同16年10月には陸軍省から参謀本部直轄となりました。
教育科目は、軍事学(兵器・築城・航空学など)、外国語(英語・ロシア語・中国語)、武術(剣術・柔術)、細菌学、薬物学、法医学、実習(通信・自動車など)、講義(忍術・法医学など)、その他(気象学・交通学・心理学・統計学など)など多岐にわたっていました。
諜報・謀略・防諜・宣伝が科目の中心でしたが、政治・経済・思想・宗教といった学科もあったそうです。
各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動し、参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動を行いましたが、戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいたようです。
同20年4月、群馬県の富岡町に疎開移転するまで中野に存在しました。
7.薬師あいロード商店街(阿部定事件)
阿部定事件の当事者が主人をしていた吉田屋という料亭の跡。
この辺りは置屋(芸妓屋)があったところですが、今はその面影はありません。
雷神堂の裏手にある新井防災公園は新井三業地の見番跡で花街の中心だったようです。
(阿部定事件)
昭和11(1936)年の2.26事件後、5月18日に事件は起こります。
上尾久4丁目(現西尾久2丁目)の三業地の待合「満佐喜」に5月初めから宿泊していた吉田屋主人でうなぎ職人の石田吉蔵(42歳)が連れの同家女中・阿部定(32歳)に腰ひもで絞め殺され、さらに局部を切り落とされ、太股には血文字で「吉、定二人きり」と書かれていました。
局部を持って逃走した定は3日後に芝高輪南町の品川旅館で逮捕され、懲役6年の刑を受け、栃木刑務所で服役、恩赦となり、昭和16年5月17日に出所。
事件の猟奇性により、世間の好奇心を呼び、注目を引くこととなります。
定は戦後、4年ほど結婚生活を送りますが、この事件を題材にした舞台劇に本人役で出演したり、台東区竜泉でおにぎり屋若竹を開きます。
その後、市原の勝山ホテルで仲居として働き、昭和40年代終わり以降、定の消息が途絶えてしまいました。
昭和30(1955)年、定は久遠寺(山梨県身延町)で石田の永代供養の手続きをしていますが、彼女の失踪後も、石田の命日には送り主不明の花束が届けられていたそうで、これは定によるものとする説もあるようですが、昭和62(1987)年頃を境に贈られることがなくなってしまいました。
(この事件は一体何だったのか・・・)
その後もこの事件をモデルにした作品が映画やTVで映像化されましたが、2.26事件後の霧がかかったような不透明な時代背景のもと、その猟奇的な内容だけでなく、別の視点から見ると究極の愛の物語を見ているような気がしてきました・・・
コメントをお書きください