ぶらっと日本橋で明治の香りを巡る

『桜が咲き誇る季節に、日本橋をぶらっと散歩』

 

 

[日本橋]

 

慶長8(1603)年に初代の木造橋が架けられ、翌年五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点となりました。

日本橋から東隣の江戸橋にかけては魚河岸が賑わい、白木屋や越後屋などが建ち並ぶ、江戸随一の繁華街でした。

 

明治に入ると石造りの橋に架け替えられ、現在の橋は明治44(1911)年竣工、橋長49m、橋幅28mの石造2連アーチ橋です。

橋の中央には道路の起点を示す道路元標が埋め込まれ、北西の橋詰にレプリカが展示されています。

 

「日本橋」という橋の字は、最後の将軍 徳川慶喜公が書いたものだそうです。

1911年、今の石橋を作る時に、時の東京市長の尾崎行雄が、「江戸から東京へ戦火を交えず無血開城できたのは、ひとえに屈辱に耐え、負けを認めて恭順姿勢を貫いた慶喜公のおかげである。いわば東京の一番の恩人にこそ揮毫願うべきである。」との強い意志と敬愛の念から、ここに慶喜公の字が残りました。

 

 


2.「郵便発祥の地」

 

「郵便」という言葉が遣われ始めたのは、今から約140年前の明治初年のことで、これ以前の日本では伝馬や飛脚が文書・小荷物などを送達していました。

 

明治新政府になると、幕藩体制以来のネットワーク(宿駅などの交通網)を利用しながら、国内の政治的統一を図るための制度改革と新たな情報網の確立を急ぎ行いました。

 

明治3(1870)年に駅逓権正・前島密が建議した官営独占による郵便事業の創設が契機となり、明治4(1871)年3月1日、東京-京都-大阪の3都市とその間を結ぶ東海道筋の宿駅(62カ所の郵便取扱所)で新式郵便業務が開始されました。

 

ここは明治4年、わが国に新式郵便制度が発足したとき、郵便・輸送行政を専管した官庁「駅逓司(えきていし)」と取扱機関「東京郵便役所」が置かれた場所です。

 

郵便切手の発行(明治4年)・全国均一料金制(明治6年)など、郵便物を公私の別なく迅速・低料金で届ける新式郵便制度はこうして誕生しました。 

 

「日本近代郵便の父」として知られる前島密のブロンズ像が設置されています。 

 

 


日本橋ダイヤビルディング
日本橋ダイヤビルディング

3.「日本橋ダイヤビルディング」(三菱倉庫・江戸橋歴史展示ギャラリー)

 

三菱グループと言えば「丸の内」ですが、三菱倉庫の本社は日本橋にあります。

日本橋は三菱の創業者 岩崎彌太郎が明治9(1876)年に倉庫業を始めた場所です。

 

この地に昭和5(1930)年、建てられた「江戸橋倉庫ビル」は緩やかな曲線となっており、昭和6年には、三菱倉庫によって考案・命名された「トランクルーム」が日本で初めて設置されました。

 

また、当ビルはその外観の美しさから平成19(2007)年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。

 

江戸橋倉庫ビルは完成から約80年、日本橋の景観になっていましたが、平成26(2014)年に18階建ての「日本橋ダイヤビルディング」に建て替えられました。 

低層部(2~6階)にはこのトランクルームと三菱倉庫の本店事務所、高層階には賃貸オフィスが入っています。

 

1階エントランスには公開スペースがあり、三菱倉庫と江戸橋の歴史が展示されています。 

 

 


4.「江戸橋」

 

17世紀に大船町と木材本町の間の日本橋川に架けられました。

 

橋名の由来は、隣の日本橋との連想から命名されたとする説、都市化以前の江戸中心部が この周辺だったのではないかと推測する説があります。

 

橋の下には漁船や乗合の舟が集まり南側には船宿があり、屋形船も停泊していたそうです。

 

南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸と上総国木更津を行き来する木更津船が発着しました。

 

南詰めには明暦の大火後、火災予防のため、江戸橋広小路が設けられ賑わったと伝わります。

 

明治8(1875)年5月に石橋、明治34(1901)年には鉄橋へ架け替えられ、昭和2(1927)年、昭和通り開通に伴い、現在地に移りました。

  

 


5.「兜神社」

 

東京株式取引所の関係者によって明治11(1878)年の創建。

そのような経緯から日本証券界の鎮守となっています。

 

境内には「兜岩」と呼ばれる石が鎮座していますが、これが「日本橋兜町」の地名の由来だそうです。

なぜ、兜岩と呼ばれるのかは以下の諸説があるそうです・・・

 

1.天慶3(940)年、承平天慶の乱で平将門を討ち取った藤原秀郷が岩がある当地で将門の兜を地中に埋めて供養した

2.永承6(1051)年、前九年の役に出征する源義家がこの岩に兜をかけて戦勝祈願をした

3.寛治元(1087)年、後三年の役で凱旋帰還する源義家が岩がある当地で記念に自分の兜を地中に埋めた 

 

 


6.「日証館」(渋沢栄一邸跡)

 

この地は、明治21(1888)年に渋沢邸として、後年は渋沢事務所として使われた場所です。

また、渋沢栄一の邸宅を設計したのは、日本銀行・東京駅の設計で知られる辰野金吾です。

 

関東大震災で1923年に、渋沢邸・事務所はなくなってしまいましたが、昭和3(1928)年、東京株式取引所によって渋沢栄一邸の跡地にこの日証館が建設されました。

当初は東株ビルディングと呼ばれましたが、昭和18(1943)年の日本証券取引所設立後に「日証館」と呼ばれるようになりました。

 

戦後の昭和21(1946)年に、取引所の市場館・本館が米軍に接収されたため、取引所市場は閉鎖され、その後、東京証券取引所が設立される昭和24(1949)年5月までの間、この日証館1階の事務所で取引所取引に代わる集団取引が行われたそうです。

 

以後、日本の復興・高度成長を背景に、日証館には35社の証券会社が入居する事務所ビルとして使用されました。

 

 


7.「東京証券取引所(旧東京株式取引所)」(証券取引発祥の地)

 

明治11(1878)年6月1日、東京株式取引所が創立し、兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。

渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていました。

7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。

9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場、第一国立銀行は日本最初の株式会社となった。

 

昭和18(1943)年6月、戦時統制機関改編で日本証券取引所に統合。

 

日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。

 

昭和24(1949)年、東京証券取引所設立し、現在に至ります。

 

 


8.「銀行発祥の地」

 

渋沢栄一が中心となって明治6(1873)年に開業した「第一国立銀行」の跡です。

日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。

 

日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。

木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

 

渋沢は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の知識を持ち帰り、明治政府において新しい日本の基盤となる制度造りに力を発揮しました。

その後、実業界に転じ、生涯を通じて500にものぼる株式会社の設立・育成を行い、また学校や病院などの約600の社会・公共事業の育成にも力を注ぎ、近代日本の基礎造りに大きな貢献をしました。 

 

 


9.「元祖ハヤシライス」

 

早矢仕ライス(ハヤシライス)は、なんと丸善の創業者早矢仕有的が最初だとか。

今回、食べたのはそのハヤシソースがかかったオムライス。

 

私はオムライスが大好きでしょっちゅう食べますが、こちらのオムライスは私のランキングでも上位に来ます。

さすがのハヤシソースは、コク・うまみがあって何より深みのある味は絶品です。

 

バターっぽいオムライスの卵が、私は苦手なのでこちらのはちょうど良い感じです。

 

日本橋には有名洋食店も多く、多くのオムライスが食べられますが、是非一度は味わっていただきたいオムライスです。 

 

 



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コメント: 2
  • #1

    浜田 (月曜日, 30 5月 2022 18:19)

    ハヤシライスの起源始めて知りました。さすが親方。

  • #2

    藤井 博英 (火曜日, 31 5月 2022 09:54)

    コメントありがとうございます! ハヤシライス好きなので、いろいろなところで食べるのですが、発祥の店はどこなのか調べると丸善が出てきました。実際に食べるとうまみ・コク・深みがあってとても美味しいですよ。オムライスのフォルムも写真のようにとてもきれいで、さすがプロの技という感じです。